玉電歴史年表 明治29(1896)年〜昭和44(1969)年5月11日

 玉電の歴史の始まりは諸説はありますが、当サイトでは明治29(1896)年7月15日に玉川電気鉄道が渋谷〜溝口間の軌道敷設を出願した日を起点としました。紆余曲折を経て1907年に開通を迎え、玉川電気鉄道から東京横浜電鉄、東京急行電鉄による運営に変わり、新玉川線と首都高速道路3号線の建設に伴って廃止された昭和44(1969)年5月11日までの出来事を年表形式でまとめました。
 なお本年表では乗降場を「停留場」と表現しています(世田谷線移行後は現在の駅名標に合わせて「駅」と表現しています)。


昭和44(1969)年5月11日以降の世田谷線の出来事は右のボタンからご覧いただけます。


  • 16〜66号の手用制動機撤去が認可

  • 大蔵停留場の側線撤去、伊勢宮河原貨物停留場への側線設置が認可

    大蔵停留場付近での砂利採掘が終了し、伊勢宮河原貨物停留場付近での採掘が開始されるため、出荷拠点が移動した。


  • 東京府北多摩郡砧村が東京市に編入、東京府東京市世田谷区の一部となる


  • 東京横浜電鉄株式会社が玉川電気鉄道の発行済み株式数の過半数を取得


  • 東京横浜電鉄が玉川電気鉄道を傘下に収める

    玉川電気鉄道の当時の資本金は1,250万円。


  • 玉川電気鉄道の役員が全員辞任

    新社長には東京横浜電鉄の五島慶太が就任、他も全員が東京横浜電鉄から送り込まれた役員となった。


  • 神奈川県橘樹郡高津町が神奈川県川崎市に編入


  • 9〜15号が廃車


  • 東京横浜電鉄と玉川電気鉄道の合併契約を締結


  • 1〜6・16〜55号への尾灯の設置が完了


  • 玉川電気鉄道の株主総会で東京横浜電鉄との合併を承認


  • 東京横浜電鉄と玉川電気鉄道の会社合併認可を申請


  • 東横百貨店前〜天現寺橋間、渋谷橋〜中目黒間を東京市電の車両で運転開始

    同年に地上7階、地下2階、延べ床面積17,438㎡の玉電ビルの建設が決定し、高架線で2階に乗り入れる計画の玉川線と運行が分離された。渋谷駅東口に東横百貨店前停留場が設置され、従前から線路が繋がっていた東京市電からヨヘロ形等の車両を借用して運転された。なお運行自体は引き続き玉川電気鉄道が行った。


  • 稲荷橋停留場の再廃止が認可


  • 無蓋貨車1〜7号が廃車


  • 上町貨物停留場の廃止が認可


  • 東京横浜電鉄と玉川電気鉄道の会社合併が承認


  • 東京横浜電鉄と玉川電気鉄道が合併

    合併時点の資本金は東京横浜電鉄が3,000万円、玉川電気鉄道が1,250万円。
    東京横浜電鉄には電動客車52両、電動貨車5両、貨車13両が編入した。
    また玉川電気鉄道時代は各線に路線名が付けられ、渋谷〜玉川間は玉川線または玉川本線、渋谷〜天現寺橋間は広尾線または天現寺線、渋谷橋〜中目黒間は中目黒線または目黒線、三軒茶屋〜下高井戸間は世田谷線、玉川〜砧間は砧線、玉川〜溝ノ口間は溝ノ口線と呼称されていたが(同社による一部申請資料には天現寺橋〜砧間を玉川線と呼称している例もみられる)、合併前後から軌道線全線の路線名を玉川線に統一している。


  • 中目黒〜玉川間(等々力線)、五本木〜真中間(目黒駒沢線)の出願取下げを申請


  • 東横百貨店前〜天現寺橋間、渋谷橋〜中目黒間を東京市に経営委託

    陸上交通事業調整法に基づく措置。すでに1937年7月から東京市電の車両を借用して運行していた。


  • 東京高速鉄道線(現:東京メトロ銀座線)渋谷駅が開業、玉電ビルに乗入れ開始

    玉電ビルの3・4階に東京高速鉄道渋谷駅が設置された。


  • 玉川運輸課事務所が渋谷から大橋に移転


  • 玉川停留場をよみうり遊園停留場に改称


  • 玉川線が玉電ビルに乗入れ開始


  • 玉電ビルと帝都電鉄線(現:京王井の頭線)との連絡通路が完成


  • 【月日不詳】貨物営業が終了

    ※実施月日が不詳のため、上期末である9月30日で登録しています。
    運輸成績によれば、玉電ビル建設により渋谷停留場の市電連絡線が撤去され、広尾線が分離された1937年上期以降、貨物収入が対前年比1割以下まで激減したものの貨物輸送は細々と続けられていた模様だが、1939年下期以降は貨物収入が計上されていないことから、同年上期に貨物営業が終了したものと考えられる。最終期の砂利輸送では、砧線の大蔵停留場、伊勢宮河原貨物停留場に積込み設備が設置され、砂利の採取状況に応じて採取場近くの停留場から出荷されていた。
    なお、貨物輸送に使用された無蓋貨車20両のうち1〜7号は1937年10月に廃車され、貨車を牽引した電動貨車1〜5号は1941年10月30日に廃車されている。


  • 目黒蒲田電鉄株式会社と東京横浜電鉄が合併

    商号変更までのわずかな期間、目黒蒲田電鉄玉川線となった。


  • 西山停留場を西太子堂停留場に改称


  • 若林停留場を玉電若林停留場に改称


  • 山下停留場を玉電山下停留場に改称


  • 目黒蒲田電鉄が(新)東京横浜電鉄株式会社に商号変更


  • 池尻停留場を玉電池尻停留場に改称


  • 太子堂停留場を東太子堂停留場に改称


  • 中里停留場を玉電中里停留場に改称


  • 瀬田停留場を玉電瀬田停留場に改称


  • 玉電若林停留場の駅業務を開始


  • 松陰神社前停留場の駅業務を開始


  • 世田谷停留場の駅業務を開始


  • 玉電中里停留場の駅業務を開始


  • 玉川線渋谷接続での省線との連帯運輸開始

    玉川線側の連帯運輸範囲は渋谷接続で、大橋、三軒茶屋、玉電中里、駒沢、用賀、よみうり遊園、西太子堂、玉電若林、松陰神社前、世田谷、玉電山下、下高井戸の各停留場と省線各駅の相互間とされた。当初の発売券種は定期乗車券に限られていたが、1940年12月1日からは普通乗車券、手荷物、小荷物に広げられた。


  • 西太子堂・玉電若林・松陰神社前・世田谷停留場への出札所新設を届出

    出札所は、西太子堂は上りホーム下高井戸方、玉電若林・松陰神社前は上りホーム三軒茶屋方、世田谷は下りホーム下高井戸方に設置。あわせて玉電若林・松陰神社前の下りホームが下高井戸方に、世田谷の上りホームが三軒茶屋方に移設。


  • 31〜35号の鋼製車体化が認可

    木造車体から川崎車輛で製造された鋼製車体に載せ替えされた。旧車体は江ノ島電気鉄道100形116・117号に活用されたほか、3両分が満州国に渡ったとされる。


  • 31〜35号から71〜75号への改番を届出


  • 1・2・5・6号が廃車


  • 玉電ビルに省線(現:JR東日本線)渋谷駅玉川改札が開設


  • 玉電山下・下高井戸停留場への出札所新設を届出

    玉電山下は上りホームを三軒茶屋方に移設、出札所は現在の「たまでんカフェ山下」の位置に設置。下高井戸は線路終端部を短縮して出札所を設置し、渡り線を三軒茶屋方に移設。


  • 伊勢宮河原貨物停留場の側線撤去が認可

    砂利採掘終了に伴い、側線が撤去された。


  • よみうり遊園停留場を二子読売園停留場に改称

    玉川線の駅設備を改修のうえ、大井町線二子玉川駅と統合され、名称が統一された。


  • 電動貨車1〜5号が廃車、新京交通株式会社へ譲渡

    廃車後は5両全車が満洲国新京特別市(現:中華人民共和国吉林省長春市)の新京交通株式会社に譲渡された。
    東急の軌道線ではいったん電動貨車の配置がなくなった。


  • 3・4号が廃車、新京交通株式会社へ譲渡

    廃車後は2両とも満洲国新京特別市(現:中華人民共和国吉林省長春市)の新京交通株式会社に譲渡された。
    1〜15号の四輪単車は全車両が廃車となった。


  • 吉沢停留場の交換設備撤去が認可


  • 上通停留場が開業

    玉川線道玄坂上、大坂上停留場の休止に伴い、渋谷〜大橋間に設置された。当初は臨時停留場として開業した。


  • 道玄坂上停留場を休止


  • 大坂上停留場を休止


  • 玉電池尻停留場を休止

    戦後(時期不詳)、営業を再開した。


  • 東太子堂停留場を休止


  • 真中停留場を休止

    戦後(時期不詳)、営業を再開した。


  • 身延山別院前停留場を休止


  • 運賃改定を実施(1区間5銭)

    区間制で1区間5銭で全線25銭とされた。運賃境界は玉電池尻、上馬、桜新町、二子読売園、玉電若林、豪徳寺前に設定された。


  • 東京横浜電鉄が東京急行電鉄株式会社に商号変更

    陸上交通事業調整法に基づき、同日付で小田急電鉄株式会社、京浜電気鉄道株式会社と合併した。


  • 東京急行電鉄成立に伴う車両改番を実施

    小田急電鉄、京浜電気鉄道との合併による東京急行電鉄成立に伴い車両番号が整理され、旧玉川電気鉄道の車両は0〜900番代が割り当てられた。
    16〜30号がデハ1形デハ1〜15号、36〜45号がデハ20形デハ20〜29号、46〜55号が30形デハ30〜39号、56〜66号がデハ40形デハ41〜51号、71〜75号がデハ60形デハ61〜65号、無蓋貨車8〜20号がト1形ト1〜13号に改番された。
    なお申請文書には東京横浜電鉄時代の旧番号に、旅客車は「モハ」、無蓋貨車は「ト」の形式称号が付与されているが、付与された時期は不明。


  • 大坂上停留場を廃止


  • 道玄坂上停留場を廃止


  • 【日不詳】京浜線からデワ3031号が転入

    ※実施日が不詳のため、月末である28日で登録しています。
    有蓋電動貨車として東急京浜線から転入した。京浜電気鉄道では1924年9月、1009号として横浜船渠で製造後、1937年9月にデワ1009号、1942年5月の東京急行電鉄との合併時にデワ5013号となっていた。


  • デハ71号が入籍

    デハ70形の第一陣として、川崎車輛で製造された。


  • デハ72号が入籍

    デハ70形の第一陣として、川崎車輛で製造された。


  • デハ73号が入籍

    デハ70形の第一陣として、川崎車輛で製造された。


  • 二子読売園〜溝ノ口間の大井町線乗入れ認可を取得

    1,372mmから1,067mmへの改軌、二子読売園駅、二子新地前駅、高津駅の改修、溝ノ口駅の移転など、鉄道線車両の乗入れに伴う工事が開始された。


  • 二子読売園〜溝ノ口間を大井町線に変更

    大井町線の鉄道線車両が乗入れを開始し、軌道線車両は乗入れを終了したが、この時点では引き続き軌道法による運行となっていた。


  • 宮ノ坂停留場を休止


  • 中耕地停留場を休止


  • 大蔵停留場を休止


  • 東京都制の施行により東京市が廃止、東京都になる


  • 【日不詳】ト1形6両が京浜線に転出

    ※実施日が不詳のため、月末である31日で登録しています。
    玉川電気鉄道での旧番号13〜18号が東急京浜線(現:京浜急行電鉄)に転出し、ト5071〜5076号に改番されて使用された。
    ※ト8〜13号が転出したか、ト6〜11号が転出してト12・13号がト6・7号に改番されたと思われるが、1942年のト1形への改番の詳細は不明。


  • 渋谷〜中里間での2両連結運転が許可


  • 宮ノ坂停留場を廃止

    現在の宮の坂3号踏切道付近にあった。下りホーム跡を通る道路が若干高くなっており、当時の面影を見ることができる。


  • 中耕地停留場を廃止


  • 大蔵停留場を廃止


  • 玉電山下〜下高井戸間の上り本線撤去、単線化が認可

    撤去されたレール・電車線等の資材は相模鉄道神中線西横浜〜海老名間の複線化に使用される計画だった。六所神社前・七軒町停留場に交換設備が設置され、票券閉塞とされた。同区間は戦後複線に復された。


  • 東京急行電鉄と京王電気軌道株式会社が合併


  • 二子読売園〜砧間、二子読売園〜溝ノ口間の軌道法から地方鉄道法への変更を申請


  • デハ76号が入籍

    川崎車輛で製造された。


  • デハ77号が入籍

    川崎車輛で製造された。


  • デハ78号が入籍

    川崎車輛で製造された。


  • 二子読売園停留場を二子玉川停留場に改称


  • 【月日不詳】二子読売園が閉園し、二子農園として農産物を栽培

    ※実施月日が不詳のため、年末である12月31日で登録しています。
    戦時中の食糧不足により、社員の食料補給を目的としてじゃがいもやさつまいもなどの農産物を栽培した。


  • 運賃改定を実施(1区間10銭)

    区間制で1区間10銭とされた。1942年の運賃改定時に設定された小児運賃が廃止された。運賃境界は三軒茶屋、桜新町、二子玉川、豪徳寺前に設定された。


  • 運賃改定を実施(20銭均一)


  • 豪徳寺前停留場を移設、宮ノ坂停留場に改称

    現在の上町3号踏切道付近から、現在の宮の坂駅の位置に移設された。移設前の停留場跡は現在も鉄道用地となっており、当時の面影を見ることができる。


  • 二子玉川〜砧間、二子玉川〜溝ノ口間の軌道法から地方鉄道法への変更が認可


  • 二子玉川〜砧間、二子玉川〜溝ノ口間を軌道法から地方鉄道法に変更して運行開始

    二子玉川〜砧間は鉄道線としての運行開始にあたり砧線と呼称された。玉川線とは運賃体系が分離され、スタフ閉塞による運転となったが、従来通り玉川線の車両が使用された。


  • デハ25号が廃車、箱根登山鉄道株式会社へ譲渡

    廃車後は箱根登山鉄道株式会社に譲渡され、キキ20形キキ25号となり小田原市内線で使用された。
    箱根登山鉄道への輸送にあたり大橋車庫で仮連結器を設置し、小田急線新宿駅(経堂駅との資料もある)まで陸送のうえ、回送用台車を履き、デユニ1000形に牽引されて小田急線で小田原駅まで回送された。
    なお同号はモハ20形201号に改番、再度203号に改番後、1956年6月1日の小田原市内線廃止後は同社板橋工場で三真工業によって鋼製車体化が施されてから長崎電気軌道に再譲渡され、150形153号となり1982年3月7日に廃車された。


  • 運賃改定を実施(40銭均一乗切制)

    砧線との相互間発着の場合は50銭の特定運賃が設定された。


  • デハ26号が廃車、箱根登山鉄道株式会社へ譲渡

    廃車後は箱根登山鉄道株式会社に譲渡され、キキ20形キキ26号となり小田原市内線で使用された。
    箱根登山鉄道への輸送にあたり大橋車庫で仮連結器を設置し、小田急線新宿駅(経堂駅との資料もある)まで陸送のうえ、回送用台車を履き、デユニ1000形に牽引されて小田急線で小田原駅まで回送された。
    なお同号はモハ20形202号に改番、再度204号に改番後、1956年6月1日の小田原市内線廃止後は同社板橋工場で三真工業によって鋼製車体化が施されてから長崎電気軌道に再譲渡され、150形154号となり1985年4月10日に廃車された。


  • デハ27号が廃車、箱根登山鉄道株式会社へ譲渡

    廃車後は箱根登山鉄道株式会社に譲渡され、キキ20形キキ27号となり小田原市内線で使用された。
    箱根登山鉄道への輸送にあたり大橋車庫で仮連結器を設置し、小田急線新宿駅(経堂駅との資料もある)まで陸送のうえ、回送用台車を履き、デユニ1000形に牽引されて小田急線で小田原駅まで回送された。
    なお同号はモハ20形203号に改番、再度205号に改番後、1956年6月1日の小田原市内線廃止後は同社板橋工場で三真工業によって鋼製車体化が施されてから長崎電気軌道に再譲渡され、150形155号となり1985年10月25日に廃車された。


  • 中耕地駅が再開業

    1943年11月11日に廃止後、3年ぶりの復活となった。


  • 【月日不詳】デハ74号が入籍

    ※実施月日が不詳のため、年末である12月31日で登録しています。
    川崎車輛で製造された。戦前には完成していたとされる。竣功届出は1949年4月13日付。


  • 【月日不詳】デハ75号が入籍

    ※実施月日が不詳のため、年末である12月31日で登録しています。
    川崎車輛で製造された。戦前には完成していたとされる。竣功届出は1949年4月13日付。


  • 運賃改定を実施(60銭均一乗切制)

    砧線との相互間発着の場合は80銭の特定運賃が設定された。


  • 運賃改定を実施(1区間1円)

    乗切制で1区間1円とされた。砧線との特定運賃は廃止された。運賃境界は三軒茶屋に設定された。



 この歴史年表の制作にあたり、以下の文献・資料、ウェブサイトを参考にさせていただきました。感謝申し上げます。

<参考文献・資料等>

  • 東京横浜電鉄株式会社「東京横浜電鉄沿革史」(1943年)
  • 東京急行電鉄株式会社「東京急行電鉄50年史」(1973年)
  • 東京急行電鉄株式会社「新玉川線建設史」(1980年)
  • 東急株式会社「東急100年史」(2023年)
  • 国立公文書館所蔵 玉川電気鉄道・目黒玉川電気鉄道・東京横浜電鉄・東京急行電鉄関係書類
  • 東京都公文書館所蔵 玉川砂利電気鉄道・玉川電気鉄道・東京横浜電鉄・東京急行電鉄関係書類
  • 東急バス株式会社・株式会社東急トランセ「東急バス 創立20周年 東急バス 東急トランセ これまでの歩み」(2011年)
  • 林順信「世田谷のちんちん電車 玉電今昔」大正出版(1984年)
  • 宮脇俊三・宮田道一「世田谷たまでん時代」大正出版(1994年)
  • 「東急電車形式集.3」レイルロード・文苑堂東京店(1997年)
  • 「鉄道ピクトリアル」電気車研究会(1972年9月号、1985年1月号、1994年12月号、2004年7月号ほか)
  • 「鉄道ファン」交友社(1969年1〜4・9月号、1970年7・8月号ほか)
  • 運輸日報社「明治運輸史」(1913年)
  • 為国孝敏・榛沢芳雄「玉川電気鉄道の変遷と東京西南部地域の変容との関連についての一考察」土木史研究第13号(1993年)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/13/0/13_0_221/_pdf/-char/ja
  • 玉川電気鉄道株式会社「事業報告書」「営業報告書」「報告書」第8期〜第69回(1907年〜1937年)
  • 逓信省通信局・電気局「電気事業要覧」第1回〜第14回(1907年〜1922年)
  • 大日本帝国内務省大臣官房文書課「統計報告」第24回〜第37回(1910年〜1924年)
  • 工業雑誌社「工業雑誌」第19巻第281号(1903年)第21巻第303号(1904年)第22巻第307号(1905年)
  • 工談社「工談雑誌」第181号(1905年)
  • 堀内猪之助「東急と上田交通」(1979年)
  • 長崎電気軌道株式会社「長崎電気軌道100年史」(2015年)

<参考ウェブサイト>