枝光鉄工所で製造された。
オープンデッキとなるなど16〜21号とは設計が変更されたが、玉川電気鉄道時代は固有の形式称号が定められておらず、車両竣工図表では「形式称号ボギー客車」とされている。
玉電歴史年表 明治29(1896)年〜昭和44(1969)年5月11日
玉電の歴史の始まりは諸説はありますが、当サイトでは明治29(1896)年7月15日に玉川電気鉄道が渋谷〜溝口間の軌道敷設を出願した日を起点としました。紆余曲折を経て1907年に開通を迎え、玉川電気鉄道から東京横浜電鉄、東京急行電鉄による運営に変わり、新玉川線と首都高速道路3号線の建設に伴って廃止された昭和44(1969)年5月11日までの出来事を年表形式でまとめました。
なお本年表では乗降場を「停留場」と表現しています(世田谷線移行後は現在の駅名標に合わせて「駅」と表現しています)。
昭和44(1969)年5月11日以降の世田谷線の出来事は右のボタンからご覧いただけます。
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22〜24号が入籍
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三軒茶屋〜世田谷(現:上町)間の軌道敷設工事施行認可を申請
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三軒茶屋〜上馬引沢間の複線化が完成
開通から15年を経て渋谷〜玉川間全線の複線化が完成した。
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東京市電中渋谷線(青山線)中渋谷停留場が省線高架下から渋谷駅前に移転
現在のハチ公前にあたる渋谷駅本屋口前まで延伸された。
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東京府荏原郡世田ヶ谷村が町制を施行、東京府荏原郡世田ヶ谷町になる
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設を出願
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小田原急行鉄道株式会社が設立
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25〜27号が入籍
22〜24号と同形車だが、窓配置や細部の仕様が若干異なっていた。
25号は蒲田車輛製作所、26・27号は鶴見木工で製造された。
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世田谷(現:上町)〜下高井戸間の軌道敷設工事施行認可を申請
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三軒茶屋〜世田谷(現:上町)間の軌道敷設工事施行認可を取得
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関東大震災が発生、電力供給が絶たれて営業不能となる
富士瓦斯紡績箱根発電所の被災により、駒沢変電所経由での電力供給が絶たれたため、玉川電気鉄道の軌道事業、電灯・電力供給事業とも運営できなくなった。
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恵比寿駅前〜三軒茶屋間のみ運転再開
東京市電気局から臨時に150kWの逆送電力を受け、昼間のみ運転再開した。
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全線の運転再開
群馬電力株式会社の電力を富士瓦斯紡績経由で受電することで、8日ぶりに全線で運転再開した。
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富士瓦斯紡績の火力発電所が復旧
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渋谷停留場構内に玉川線と東京市電中渋谷線(青山線)との連絡線が竣功
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世田谷(現:上町)〜下高井戸間の軌道敷設工事施行認可を取得
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玉川〜砧間の軌道敷設工事が竣工
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玉川〜砧間2.2km(砧線)が開通
中耕地停留場、吉沢停留場、大蔵停留場、砧停留場が開業した。
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玉電への東京市電所属電動貨車・貨車の乗入れ開始
東京市電中渋谷線(青山線)中渋谷停留場から玉川線渋谷停留場の連絡線を介して乗り入れた。砂利連絡輸送は多摩川砂利合資会社からの委託により行われた。砧線大蔵停留場で東京市電の電動貨車・貨車に砂利が積み込まれ、玉電の乗務員が中渋谷停留場付近まで運転し、市電の乗務員と交代して市街各地へ輸送された。
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三軒茶屋〜世田谷(現:上町)間の軌道敷設工事に着手
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渋谷橋〜天現寺橋間の軌道敷設工事が竣工
申請上の渋谷橋は、恵比寿駅前停留場。
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恵比寿駅前〜天現寺橋間1.0km(開通時は広尾線、後に天現寺線と呼称)が開通
新橋停留場、豊沢橋停留場、天現寺橋停留場が開業した。
特許書類によれば開通時は広尾線、東京横浜電鉄合併後は軌道線が玉川線と総称されるようになったが、東京都譲渡時の申請書類には天現寺線と表記されている。
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28〜30号が入籍
22〜27号と同形車で、蒲田車輛製作所で製造された。
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目黒蒲田電鉄株式会社奥沢〜瀬田河原間の鉄道敷設免許を出願
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世田谷(現:上町)〜下高井戸間の軌道敷設工事に着手
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三軒茶屋〜上町間の軌道敷設工事方法変更認可を申請
申請当初の世田谷停留場を上町停留場に改称し、松陰神社前〜上町間に世田谷停留場を新設するなどの計画変更を行った。
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世田谷停留場から三宿停留場への改称が認可
敷設工事中の世田谷線に同名の停留場を設置(現在の世田谷駅)するため改称された。
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玉川〜溝ノ口の軌道敷設特許を取得
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真中停留場が開業
上馬引沢〜駒沢間に設置された。
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弦巻停留場が開業
駒沢〜新町間に設置された。
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【月日不詳】玉川電気鉄道直営の賃貸営業、建売住宅の販売を開始
※実施月日が不詳のため、年末である12月31日で登録しています。
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三軒茶屋〜上町間の軌道敷設工事が竣工
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三軒茶屋〜世田谷間2.1km(世田谷線)が開通
西山停留場、若林停留場、松陰神社前停留場、世田谷停留場が開業した。その後、同区間の営業キロは1940年代の三軒茶屋付近の線形変更を経て、2.0kmとなっている。
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上町〜下高井戸間の軌道敷設工事方法変更認可を申請
八幡前停留場を豪徳寺停留場に、豪徳寺裏停留場を宮ノ坂停留場に、松澤停留場を七間町停留場にそれぞれ改称し、前田停留場を廃止して山下停留場を新設するなどの計画変更を行った。
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31〜35号が入籍
31・32号は日本車輌、33〜35号は田中車輛で製造された。
全長が若干延長され、乗車定員が変更されるなど22〜30号とは設計が変更されたが、玉川電気鉄道時代は固有の形式称号が定められておらず、車両竣工図表では「形式称号ボギー客車」とされている。
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渋谷〜東北沢間(代々幡線)の軌道敷設を出願
東京帝国大学の北側を通る計画だった。
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下渋谷貨物取扱所への引込線設置が認可
貨物列車の一時留置や荷役作業を目的として、新橋〜豊沢橋間に設置された。上り本線から分岐して側線が設置され、渋谷方面からの貨物列車は一旦天現寺橋で折り返してから進入したとされる。
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運賃改定を実施(1区間4銭)
区間制で1区4銭、2区7銭、3区10銭、4区13銭、5区16銭、6区22銭で全線25銭とされた。運賃境界は渋谷町役場前(中目黒線は恵比寿駅前)、渋谷、大橋、三軒茶屋、駒沢、用賀、玉川、世田谷、山下に設定された。
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上町〜下高井戸間の軌道敷設工事が竣工
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砧〜狛江間(砧線)の軌道敷設を出願
途中に宇奈根、陣屋、本村、緒方停留場を設置、小田急和泉多摩川駅に隣接して狛江停留場を設置する計画だった。
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玉川プールが開場
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中目黒〜玉川間(等々力線)の軌道敷設を出願
祐天寺、碑文谷、柿の木坂、等々力、下野毛を経由する計画だった。
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36〜45号が入籍
蒲田車輛製作所で製造された。
中扉が設けられ、乗降口が3箇所となるなど設計が変更されたが、玉川電気鉄道時代は固有の形式称号が定められておらず、車両竣工図表では「形式称号ボギー客車」とされている。
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二子橋が完成
玉川〜溝ノ口間の早期開通を目論見、玉川電気鉄道が建設費52万円のうち15万円を負担した。
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道玄坂上〜新宿追分間(新宿線)の軌道敷設を出願
道玄坂上から分岐して、そのまま併用軌道で神宮通りに入り、明治通りに合流して京王線新宿追分駅に接続する計画だった。
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設工事施行認可を申請
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東京府荏原郡駒沢村が町制を施行、東京府荏原郡駒沢町となる
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渋谷橋〜鎗ヶ崎間の軌道敷設工事施行認可を申請
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小田原急行鉄道小田原線新宿〜小田原間の鉄道敷設工事に着手
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五本木〜真中間(目黒駒沢線)の軌道敷設を出願
碑文谷、下馬、野沢を経由する計画だった。
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天現寺橋停留場への東京市電恵比寿線と広尾線との連絡線の敷設が認可
東京市電気局が申請・認可を受け、東京市の負担により施工された。
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恵比寿駅前〜中目黒間の軌道敷設工事施行認可を取得
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設工事施行認可を取得
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道玄坂上〜新町間の乗合自動車事業の営業許可を申請
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広尾線渋谷〜天現寺橋間への東京市電所属電動貨車・貨車の乗入れが認可
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目黒玉川電気鉄道株式会社創立発起人により目黒〜等々力間、目黒町役場〜鷹番間の鉄道敷設免許を出願
発起人総代は貴族院議員の池田長康氏。本線は荏原郡大崎町を起点に、目黒町、碑衾村を通り玉川村が終点とされ、支線は目黒町役場から分岐して碑衾村鷹番が終点とされた。
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鎗ヶ崎〜中目黒間の軌道敷設工事施行認可を申請
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目黒玉川電気鉄道等々力〜長谷間の鉄道敷設免許を出願
荏原郡玉川村を起点に、神奈川県橘樹郡中原村、橘村、都筑郡新田村、都田村、橘樹郡城郷村、都筑郡西谷村、二俣川村、鎌倉郡川上村、中川村、戸塚町、高座郡藤沢町、鎌倉郡村岡村、深沢村を通り鎌倉町が終点とされた。
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東京横浜電鉄株式会社渋谷線渋谷〜丸子多摩川間の鉄道敷設工事に着手
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南武鉄道株式会社(現:JR南武線)川崎〜登戸間が開通
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京王電気軌道・八王子市街自動車と連帯運輸を締結
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渋谷橋〜中目黒間の軌道敷設工事施行認可を取得
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渋谷橋〜中目黒間の軌道敷設工事が竣工
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恵比寿駅前停留場を渋谷橋停留場に改称
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渋谷橋〜中目黒間1.4km(中目黒線または目黒線)が開通
長谷戸停留場、鎗ヶ崎停留場、中目黒停留場が開業した。
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小田原急行鉄道小田原線新宿〜小田原間が開通
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46〜55号が入籍
46〜52号が汽車製造、53〜55号が日本車輌で製造された。
初めての半鋼製車体となるなど設計が変更されたが、玉川電気鉄道時代は固有の形式称号が定められておらず、車両竣工図表では「形式称号ボギー客車」とされている。
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目黒玉川電気鉄道目黒〜等々力間の鉄道敷設免許を取得
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設工事方法変更認可を申請
二子橋に接続するため、玉川線と砧線の合流部分から北側にカーブする形で線路を付け替え、玉川停留場の位置を移設する計画変更を行った。
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道玄坂上〜新町間の乗合自動車事業の営業許可を取得
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設工事、玉川停留場の移設工事が竣工
二子橋を経由するため、玉川停留場が北側に移設された。
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玉川〜溝ノ口間2.2km(溝ノ口線)が開通
二子停留場、高津停留場、溝ノ口停留場が開業した。
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16〜55号へのホイッスル設置を届出
フットゴングと併用とされた。
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東京横浜電鉄東横線渋谷〜丸子多摩川間が開通
渋谷線は渋谷〜神奈川間の全線開通にあわせて東横線に改称された。
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道玄坂上〜新町間の乗合自動車(バス)路線が開通
バス10台が配置され、車庫は新町に置かれた。
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目黒玉川電気鉄道株式会社が設立
資本金は500万円、本社は玉川電気鉄道本社所在地と同一、社長は玉川電気鉄道専務(代表取締役)の津田興二氏が兼務。
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目黒蒲田電鉄奥沢〜瀬田河原間の鉄道敷設免許を取得
奥沢は後に大岡山に変更、瀬田河原は二子玉川に改称された。
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目黒玉川電気鉄道等々力〜長谷間の鉄道敷設が却下
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16〜30号への圧縮空気制動機の取付けが認可
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下高井戸停留場について京王電気軌道と「京王電車停留場の乗降場共用に関する協定書」を交換
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神奈川県橘樹郡高津村が町制を施行、神奈川県橘樹郡高津町となる
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56〜61号が運転開始
日本車輌で製造された。同年7月に入籍したとする資料もある。
再び中扉が設けられるなど設計が変更されたが、玉川電気鉄道時代は固有の形式称号が定められておらず、車両竣工図表では「形式称号ボギー客車」とされている。
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目黒玉川電気鉄道が目黒〜等々力間から目黒〜玉川間への免許区間の変更を申請
経過地に駒沢村を追加。
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目黒玉川電気鉄道清水〜駒沢間(駒沢支線)の鉄道敷設免許を出願
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宮益坂〜道玄坂上間のバス路線が開通
開通当初は午前11時までの制限が設けられ、1929年3月1日から終日運転となった。
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目黒蒲田電鉄二子玉川線大岡山〜二子玉川間の鉄道敷設工事に着手
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上町貨物停留場が竣功
現在の上町車庫の位置に留置線1本と貨物積卸場が設置され、上下本線には渡り線が新設された。
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目黒玉川電気鉄道目黒〜等々力間から目黒〜玉川間への免許区間の変更が認可
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62〜66号が入籍
56〜61号と同形車で、日本車輌で製造された。
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渋谷〜鎗ヶ崎間のバス路線が開通
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目黒玉川電気鉄道清水〜駒沢間(駒沢支線)の鉄道敷設免許を取得
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玉川遊園地が玉川電気鉄道の直営となる
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砧〜狛江間(砧線)の軌道敷設特許を取得
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玉川電気鉄道が日東乗合自動車を買収
日東乗合自動車は上通〜世田谷(若林)間のバス路線を運行していた。
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目黒玉川電気鉄道目黒〜清水間の鉄道敷設工事認可を取得
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目黒蒲田電鉄二子玉川線自由ヶ丘〜二子玉川間が開通
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目黒蒲田電鉄二子玉川線が大井町線に改称
同日の大岡山〜自由ヶ丘間の開通による、大井町〜二子玉川間の全線開通にあわせて改称された。
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伊勢宮河原貨物停留場が竣功
吉沢〜大蔵間に設置され、スタフ閉塞区間は玉川〜吉沢間、吉沢〜伊勢宮河原間、伊勢宮河原〜大蔵間、大蔵〜砧間の4区間とされた。
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目黒蒲田電鉄と玉川停留場の連絡運輸を契約