世田谷線の開通前史

 世田谷への鉄道敷設計画は、日本初の鉄道が新橋〜横浜間に開通してから23年遅れて、1895(明治28)年に出願された武相中央鉄道が最初期であると言われています。千駄ヶ谷〜小田原を結ぶ予定線に駒場〜世田谷〜用賀〜溝の口のルートが組み入れられ、現在の世田谷中央病院付近に停車場が設置される計画でした。
 1896年11月に、この武相中央鉄道の停車場から生田までの路線を出願したのが玉川砂利電気鉄道で、その後世田谷から都心側への延伸を目指し、のちの世田谷線に繋がる計画が生まれました。1902年2月に渋谷〜玉川間、三軒茶屋〜世田谷間の特許を取得すると、玉川砂利電気鉄道は玉川電気鉄道に商号を変更しています。

1896年に玉川砂利電気鉄道により出願された予定線

世田谷線の開通前史

東京都公文書館所蔵「玉川砂利電気鉄道線路図(1896年11月18日付進達願)」をもとに作図

 ただし、資金繰りの悪化により実際に工事が着工されたのは渋谷〜玉川間のみで、1907年の同区間の開通以降も三軒茶屋から世田谷の中心部への路線は着工できませんでした。都心から陸軍施設が次々に移転していた大山道沿いと違い、沿線に人口増加の要素はなく、1910年11月に三軒茶屋〜世田谷間の特許線廃止、世田谷〜和泉(登戸渡船場)間の特許状返納を出願し、世田谷線計画は一旦終焉を迎えます。

1902年に取得した玉川電気鉄道の特許線(赤色が特許線)
※世田谷〜和泉(登戸渡船場)は別途特許状を取得していたと考えられる。

世田谷線の開通前史

「玉川電気鉄道線路図(1907年経済時報社「経済時報」第57号掲載)」をもとに作図

 10年後の1921年、再度世田谷線計画の機運が高まります。世田ヶ谷村の名士である大場家当主や世田ヶ谷村長らが地域の地主160名から軌道敷地の寄付を取り付け、玉川電気鉄道に三軒茶屋から陸軍自動車隊(現在の東京農業大学付近)への鉄道敷設の請願書を提出したことにより、同年6月の三軒茶屋〜下高井戸間の出願に繋がりました。この計画は1922年7月に特許を取得し、翌年から敷設工事が開始されました。

開通時の世田谷線線路平面図

世田谷線の開通前史

国立公文書館所蔵「世田谷線三軒茶屋世田谷間電気軌道新設線路平面図(1924年12月8日付申請書)」をもとに作図

世田谷線の開通前史

国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図

 そして1925年1月18日に三軒茶屋〜世田谷間が開通、3ヶ月遅れて同年5月1日に残りの世田谷〜下高井戸間が開通して世田谷線が全通しました。開通当時の運賃は、三軒茶屋〜世田谷、世田谷〜山下、山下〜下高井戸の3区間に分けられ1区間4銭、2区間7銭、三軒茶屋〜下高井戸間の全線を乗り通すと3区間で10銭でした(別に1回乗車ごとに通行税1銭)。
 開通当時は農村地帯だった世田谷線沿線ですが、折しも関東大震災の直後で住宅地が都心から郊外に移転していくタイミングと重なりました。山下〜下高井戸間が通る荏原郡松澤村では、開通前年の1924年に4,474人だった人口が、翌1925年に7,237人、開通5年後の1930年には12,337名とわずかな期間に大量の人々が移り住んでおり、世田谷線の開通がのどかな農村を一気に東京のベットタウンへと押し上げたことがわかります。
 世田谷を南北に縦断する世田谷線は、世田谷区を東京都最大の人口にまで押し上げた立役者であるといえます。その目覚ましい発展の裏には、100年前に地域住民から線路敷地の寄贈など多大な尽力があったことを特に記しておきたいと思います。