世田谷線100年前の面影探訪
世田谷線は関東大震災後に開通し、第二次世界大戦の末期には三軒茶屋から若林、宮の坂、下高井戸付近などで一部空襲の被害を受けましたが、都内の中では比較的戦火を免れたエリアを通っていたことから、開通当時の面影を今も数多く見ることができます。
この開通100周年を機会に、「100年前の世田谷線の車窓から」ページでご紹介した開通当時の平面図を手にしながら、今も100年前の面影が残る場所をいくつか訪ねてみました(調査日:2025年1月29日・2月3日)。
三軒茶屋駅の0.2キロポスト

渋谷〜玉川間の支線として開通した世田谷線の起点は、三軒茶屋交差点上にあった玉川方面との分岐器の始端に置かれていました。現在の田園都市線三軒茶屋駅の北口と南口を結ぶ横断歩道の中央付近にあたります。
1969年5月の玉川線廃止によって、起点は世田谷線三軒茶屋駅に移りましたがキロポストは移設されず、1996年11月の三軒茶屋駅移設時には、乗車ホームの下に玉川線時代の起点を基準にした0.2キロポストが設置されました。
三軒茶屋付近はキャロットタワー建設によって大きく変貌を遂げ、開通当時の面影を見つけることは難しくなりましたが、0.2kmの数字がこれまでの路線の変遷を今に伝えています。
国立公文書館所蔵「世田谷線三軒茶屋世田谷間電気軌道新設線路平面図(1924年12月8日付申請書)」をもとに作図
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三軒茶屋駅乗車ホーム下に設置された0.2キロポスト/2025年1月29日 三軒茶屋駅
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三軒茶屋駅乗車ホーム下に設置された0.2キロポスト/2025年1月29日 三軒茶屋駅
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三軒茶屋駅乗車ホーム下に設置された0.2キロポスト/2025年1月29日 三軒茶屋駅
若林駅の下りホーム跡と西山谷開渠

開通当初の若林停留場は、現在の西太子堂6号踏切道を挟んで上下ホームが配置されており、下りホームは三軒茶屋方に設置されていました。1940年頃に踏切警報機の設置に伴い、下高井戸方の上りホームと揃えられましたが、現在でも下りホーム跡は鉄道用地として残されています。
また現在の若林駅のホーム下を観察すると、烏山川の支流が流れる西山谷開渠の痕跡を見つけることができます。開通当時は開渠の部分は停留場にはかかっておらず、1950年頃に2両編成が停車できるよう下高井戸方へホームが延伸されたことで、ホームが川を跨ぐようになりました。付近の烏山川支流は暗渠となりましたが、1990年代までは一部露出しており、開渠上の軌道敷には木製の渡板が敷かれていました。
国立公文書館所蔵「世田谷線三軒茶屋世田谷間電気軌道新設線路平面図(1924年12月8日付申請書)」をもとに作図
若林停留場下りホーム跡
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開通当初の若林停留場下りホーム跡/2025年2月3日 西太子堂〜若林間
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開通当初の若林停留場下りホーム跡/2025年2月3日 西太子堂〜若林間
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開通当初の若林停留場下りホーム跡/2025年2月3日 西太子堂〜若林間
西山谷開渠
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ポンプ格納庫付近の下を流れる烏山川支流(通称若林川)/2025年2月3日 若林駅
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世田谷通り方面へ伸びる烏山川支流(通称若林川)の痕跡/2025年2月3日 若林駅
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若林駅上りホームから見た烏山川支流(通称若林川)/2025年2月3日 若林駅
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若林駅上りホーム裏に残る烏山川支流(通称若林川)の痕跡/2025年2月3日 若林駅
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若林駅上りホーム裏に残る烏山川支流(通称若林川)の痕跡/2025年2月3日 若林駅
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西山谷開渠(烏山川支流・通称若林川)若林駅上りホーム側/2025年2月3日 若林駅
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西山谷開渠(烏山川支流・通称若林川)若林駅上りホーム側/2025年2月3日 若林駅
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西山谷開渠(烏山川支流・通称若林川)若林駅下りホーム側/2025年2月3日 若林駅
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西山谷開渠(烏山川支流・通称若林川)若林駅下りホーム側/2025年2月3日 若林駅
松陰神社前駅の下りホーム跡

開通当初の松陰神社前停留場は、現在の若林4号踏切道を挟んで上下ホームが配置されており、下りホームは三軒茶屋方に設置されていました。1940年頃に踏切警報機の設置に伴い、下高井戸方の上りホームと揃えられました。
若林のようにはっきととした痕跡ではありませんが、現在も踏切脇の架線柱がやや線路から離れた位置に建柱され、軌道敷が少し広くなっており、下りホーム跡の面影を見つけることができます。今回詳しく見てみると、架線柱の根元に古めかしい縁石が埋まっているのを発見しました。この位置は当時のホームの入口付近にあたり、もしかするとホーム基礎の一部分なのかもしれません。
国立公文書館所蔵「世田谷線三軒茶屋世田谷間電気軌道新設線路平面図(1924年12月8日付申請書)」をもとに作図
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開通当初の松陰神社前停留場下りホーム跡/2025年2月3日 若林〜松陰神社前間
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開通当初の松陰神社前停留場下りホーム跡/2025年2月3日 若林〜松陰神社前間
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開通当初の松陰神社前停留場下りホーム跡/2025年2月3日 若林〜松陰神社前間
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開通当初の松陰神社前停留場下りホーム跡/2025年2月3日 若林〜松陰神社前間
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開通当初の松陰神社前停留場下りホーム跡/2025年2月3日 若林〜松陰神社前間
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開通当初の松陰神社前停留場下りホーム跡/2025年2月3日 若林〜松陰神社前間
世田谷駅の旧ホーム跡

開通当時の世田谷停留場は、現在の世田谷1号踏切道の下高井戸方に設置されていました。1930年代にまず下りホームが三軒茶屋方に移動後、1940年頃に踏切警報機の設置に伴い、上りホームも三軒茶屋方の下りホームと揃えられました。
現在も下りホーム跡は「世田谷1号資材置場」、上りホーム跡は世田谷線フラワリング活動の一環で設置された花壇として、いずれも鉄道用地のまま活用されており、開通当初の面影を今に伝えています。
国立公文書館所蔵「世田谷線三軒茶屋世田谷間電気軌道新設線路平面図(1924年12月8日付申請書)」をもとに作図
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開通当初の世田谷停留場上りホーム跡/2025年2月3日 世田谷〜上町間
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開通当初の世田谷停留場上りホーム跡/2025年2月3日 世田谷〜上町間
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開通当初の世田谷停留場上りホーム跡/2025年2月3日 世田谷〜上町間
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開通当初の世田谷停留場上下ホーム跡/2025年2月3日 世田谷〜上町間
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開通当初の世田谷停留場下りホーム跡/2025年2月3日 世田谷〜上町間
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開通当初の世田谷停留場下りホーム跡/2025年2月3日 世田谷〜上町間
上町〜宮の坂間の豪徳寺前停留場跡

開通当時、現在の上町3号踏切道を挟んで豪徳寺前停留場が設置されており、この踏切道前後の道路は停留場への通路として玉川電気鉄道の手で敷設されたものでした。1945年7月に宮ノ坂停留場に改称のうえ現在の宮の坂駅の位置に移転しましたが、現在も豪徳寺前停留場の上下ホーム跡は鉄道用地として残されています。
上りホーム跡は現在「宮の坂砕石置場」となっていますが、1990年代には保線用モーターカーの車庫が設置されており、終電後にはこの場所から作業場所へと出発していました。
上りホームの横には烏山川が流れており、開通当時は烏山用水橋梁が架橋されていましたが、現在は暗渠となり橋梁も撤去されています。
国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図
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豪徳寺前停留場上りホーム跡/2025年2月3日 上町〜宮の坂間
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豪徳寺前停留場上りホーム跡/2025年2月3日 上町〜宮の坂間
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豪徳寺前停留場上りホーム跡/2025年2月3日 上町〜宮の坂間
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豪徳寺前停留場上りホーム跡/2025年2月3日 上町〜宮の坂間
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豪徳寺前停留場下りホーム跡/2025年2月3日 上町〜宮の坂間
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豪徳寺前停留場跡に隣接する烏山川緑道/2025年2月3日 上町〜宮の坂間
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豪徳寺前停留場跡を横切る上町3号踏切道/2025年2月3日 上町〜宮の坂間
宮の坂〜山下間の(旧)宮ノ坂停留場跡

開通当時、現在の宮の坂3号踏切道を挟んで宮ノ坂停留場が設置されていました。第二次世界大戦の戦況悪化による動力費削減を目的として1943年7月に営業休止、同年11月に廃止され、下りホーム部分は道路に取り込まれましたが、現在もホーム跡が周囲よりも少し高くなっており、営業当時の面影を今に伝えています。一方で上りホーム跡は、軌道敷が少し広めに取られているのがかろうじてわかる程度で、残念ながらはっきりとした痕跡は見つけられませんでした。
国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図
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(旧)宮ノ坂停留場上りホーム跡/2025年2月3日 宮の坂〜山下間
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(旧)宮ノ坂停留場上りホーム跡/2025年2月3日 宮の坂〜山下間
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(旧)宮ノ坂停留場下りホーム跡/2025年2月3日 宮の坂〜山下間
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(旧)宮ノ坂停留場下りホーム跡/2025年2月3日 宮の坂〜山下間
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(旧)宮ノ坂停留場下りホーム跡/2025年2月3日 宮の坂〜山下間
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(旧)宮ノ坂停留場下りホーム跡/2025年2月3日 宮の坂〜山下間
山下〜松原間の前田停留場設置予定地

1924年2月に世田谷線の敷設工事が認可された時点では、現在の山下1号踏切道を挟んで前田停留場が設置される計画となっていましが、開通4ヶ月前の翌年1月に現在の山下駅の場所に新たな停留場を設置することになり、前田停留場の計画は廃止となりました。計画変更の理由として、県道に近く今後発展が見込まれることが挙げられていましたが、ちょうど同じ頃に新宿〜小田原間を結ぶ小田原急行鉄道の敷設ルートが決定しており、この決定を受けて豪徳寺駅の近くに停留場を移したものと考えられます。
実際には開業しなかった前田停留場ですが、上りホームの予定地は現在も鉄道用地として残されており、幻の計画を今に伝えています。
国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図
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前田停留場上りホーム予定地/2025年2月3日 山下〜松原間
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前田停留場上りホーム予定地/2025年2月3日 山下〜松原間
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前田停留場上りホーム予定地/2025年2月3日 山下〜松原間
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前田停留場下りホーム予定地/2025年2月3日 山下〜松原間
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前田停留場下りホーム予定地/2025年2月3日 山下〜松原間
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前田停留場予定地/2025年2月3日 山下〜松原間
山下〜松原間の宮前開渠

現在の世田谷線で唯一の鉄橋が、山下3号踏切道の横を流れる北沢川の支流に架けられた宮前開渠です。敷設工事の申請図面と見比べてみると、橋梁の梁やリベットの位置など外見上の特徴が一致しています。ただし戦時中の物資不足により、同区間の上り本線を撤去し、単線化された時期があったことから、上り線の橋梁は戦後の復旧時に再設置されたものです。下り線の橋梁は開通当時の橋梁である可能性が高いと言えます。
この北沢川支流の南岸に沿って高台となっており、赤土からなるこの高台にかつて防塁があったことから赤堤の地名が生まれたとされています。
開通から100年で周囲は住宅街になりましたが、100年前から変わらぬ鉄橋の姿と起伏のある地形が開通当時の面影を今に伝えています。
国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図
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宮前開渠(北沢川支流)山側/2025年2月3日 山下〜松原間
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宮前開渠(北沢川支流)山側/2025年2月3日 山下〜松原間
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宮前開渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 山下〜松原間
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宮前開渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 山下〜松原間
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宮前開渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 山下〜松原間
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宮前開渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 山下〜松原間
山下〜松原間の六所神社前停留場跡

開通当時、六所神社に隣接して六所神社前停留場が設置されていました。これは現在の山下4号踏切道の三軒茶屋方にあたりますが、当時は踏切道自体が三軒茶屋方にあり、1942年頃の付近の耕地整理事業に伴って道路の付け替えが行われ、現在の位置に移設されました。同時に下りホームが上りホームと揃えられ、下りホーム入口には出札口を備えた小さな駅舎も設置されましたが、1949年9月に玉電松原停留場に改称のうえ現在の松原駅の位置に移転し、その役目を終えました。
下りホームと駅舎の跡は道路に取り込まれており当時の痕跡を見つけることはできませんが、上りホーム跡は現在も鉄道用地のまま、当時のホームのコンクリート基礎が残されており、停留場の面影を今に伝える貴重な遺構となっています。
国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図
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六所神社前停留場上りホームのコンクリート基礎/2025年2月3日 山下〜松原間
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六所神社前停留場上りホーム跡/2025年2月3日 山下〜松原間
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六所神社前停留場上りホーム跡/2025年2月3日 山下〜松原間
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六所神社前停留場上りホーム跡/2025年2月3日 山下〜松原間
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六所神社前停留場上りホーム跡/2025年2月3日 山下〜松原間
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六所神社前停留場下りホーム跡/2025年2月3日 山下〜松原間
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六所神社前停留場跡、開通当時の踏切跡/2025年2月3日 山下〜松原間
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六所神社前停留場跡、開通当時の踏切跡/2025年2月3日 山下〜松原間
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六所神社前停留場跡/2025年2月3日 山下〜松原間
松原〜下高井戸間の赤堤構渠

松原駅から下高井戸方に50mほど進んだ赤松公園の横に、川はないのにコンクリート橋のような構造物が埋まっています。これは開通当時に赤堤構渠として架橋されたもので、この下には北沢川の支流が現在も暗渠となって流れているものと思われます。
夏になるとコンクリート部分が草で隠れてしまうことも多く、つい見落としてしまいそうになりますが、水田地帯だった開通当時の面影を今に伝える貴重な生き証人と言えます。
国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図
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赤堤構渠(北沢川支流)山側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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赤堤構渠(北沢川支流)山側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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赤堤構渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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赤堤構渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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赤堤構渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
松原〜下高井戸間の七軒町停留場跡

開通当時、現在の松原1号踏切道を挟んで七軒町停留場が設置されていました。1949年9月に六所神社前停留場が玉電松原停留場に改称のうえ現在の松原駅の位置に移転するにあたり、停留場の間隔が短くなる七軒町停留場は乗降客数が少なかったこともあり廃止されることになりました。
下りホーム跡は道路に取り込まれており当時の痕跡を見つけることはできませんが、上りホーム跡は「松原1号資材置場」として現在も鉄道用地のまま活用されており、営業当時の面影を今に伝えています。
国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図
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七軒町停留場上りホーム跡/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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七軒町停留場上りホーム跡/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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七軒町停留場上りホーム跡/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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七軒町停留場下りホーム跡/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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七軒町停留場下りホーム跡/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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七軒町停留場跡/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
松原〜下高井戸間の中通構渠

松原2号踏切道の下を斜めに横切る形で北沢川の支流が流れています。踏切脇にはよく見るとコンクリート橋のような構造物が架けられており、これが開通当時に架橋された中通構渠です。敷設工事の申請図面と見比べてみると、海側の橋脚部分がトタンで隠れているものの、その他のコンクリート躯体の形状は一致することから、開通当時のものであると考えられます。
北沢川の支流は、先に紹介した宮前開渠を除いて周辺のほとんどが暗渠化されていますが、この中通構渠付近は蓋がされておらず、わずかな区間ながら暗渠化以前の水路の姿を世田谷線の線路沿いで見ることができる貴重なポイントです。
国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図
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中通構渠(北沢川支流)山側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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中通構渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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中通構渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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中通構渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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中通構渠(北沢川支流)海側/2025年2月3日 松原〜下高井戸間
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中通構渠山側から露出する北沢川支流/2025年2月3日 松原〜下高井戸間