世田谷線は1925(大正14)年1月18日に三軒茶屋〜世田谷間、同年5月1日に世田谷〜下高井戸間が開通して以来、今年で開通100周年を迎えました。

世田谷線の開通まで

 世田谷への鉄道敷設計画は、日本初の鉄道が新橋〜横浜間に開通してから23年遅れて、1895(明治28)年に出願された武相中央鉄道が祖と言われています。千駄ヶ谷〜小田原を結ぶ予定線に駒場〜世田谷〜用賀〜溝の口のルートが組み入れられ、現在の世田谷中央病院付近に世田谷駅が設置される予定でした。
 1896年11月に、この世田谷駅から生田までの路線を出願したのが玉川砂利電気鉄道で、のちの世田谷線に繋がる計画となりました。その後世田谷駅より都心側への延伸を目指し、1902年2月に渋谷〜玉川間、三軒茶屋〜世田谷間の特許を取得しました。逆に当初の目論見であった世田谷から西側の区間の特許は得られず、玉川砂利電気鉄道は玉川電気鉄道に商号を変更しています。

1896年に玉川砂利電気鉄道により出願された予定線

世田谷線開通100周年

東京都公文書館所蔵「玉川砂利電気鉄道線路図(1896年11月18日付け進達願)」をもとに作図

 ただし、資金繰りの悪化により実際に工事が着工されたのは渋谷〜玉川間のみで、1907年の同区間の開通以降も三軒茶屋〜世田谷間は着工できず、1910年10月に特許線の廃止を出願、翌年3月に許可されており、世田谷線計画は一旦終焉を迎えます。

1907年時点で玉川電気鉄道が取得していた特許線(赤色が特許線)

世田谷線開通100周年

「玉川電気鉄道線路図(1907年経済時報社「経済時報」第57号掲載)」をもとに作図

 10年後の1921年、再度世田谷線計画の機運が高まります。世田谷村の名士である大場家当主が地域の地主160名から軌道敷地の寄付を取り付け、玉川電気鉄道に世田谷線敷設の請願書を提出したことにより、同年6月の三軒茶屋〜下高井戸間の出願に繋がりました。この計画は1922年7月に特許を取得し、翌年から敷設工事が開始されました。
 そして1925年1月18日に三軒茶屋〜世田谷間が開通、3ヶ月遅れて同年5月1日に残りの世田谷〜下高井戸間が開通して世田谷線が全通しました。開通当時の運賃は、三軒茶屋〜世田谷、世田谷〜山下、山下〜下高井戸の3区間に分けられ1区間4銭、2区間7銭、三軒茶屋〜下高井戸間の全線を乗り通すと3区間で10銭でした(別に1回乗車ごとに通行税1銭)。
 開通当時は農村地帯だった世田谷線沿線ですが、折しも関東大震災の直後で住宅地が都心から郊外に移転していくタイミングと重なりました。山下〜下高井戸間が通る荏原郡松澤村では、開通前年の1924年に4,474人だった人口が、翌1925年に7,237人、開通5年後の1930年には12,337名とわずかな期間に大量の人々が移り住んでおり、世田谷線の開通がのどかな農村を一気に東京のベットタウンへと押し上げたことがわかります。
 現在の世田谷区の発展に大きく寄与してきた世田谷線が、地域の人々の多大な協力により完成されたことを、100周年を迎えるにあたり謝意に代えて特に記しておきたいと思います。

世田谷線開通100周年
世田谷線開通100周年
世田谷線開通100周年
世田谷線開通100周年
世田谷線開通100周年
世田谷線開通100周年
世田谷線開通100周年
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世田谷線開通100周年
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世田谷線開通100周年

 このページの制作にあたり、以下の文献・資料、ウェブサイトを参考にさせていただきました。感謝申し上げます。

<参考文献・資料等>

  • 東急株式会社「東急100年史」(2023年)
  • 玉川電気鉄道株式会社「事業報告書」「営業報告書」「報告書」第8期〜第69回(1907年〜1937年)
  • 国立公文書館所蔵 玉川砂利電気鉄道・玉川電気鉄道・武相中央鉄道関係書類
  • 東京都公文書館所蔵 玉川砂利電気鉄道・玉川電気鉄道関係書類
  • 東京市臨時市域擴張部「荏原郡松澤村現状調査」(1931年)

<参考ウェブサイト>