起点は当時仮免許が交付されていた武相中央鉄道の停車場予定地(現在の世田谷中央病院付近)とされた。
軌道敷設計画の変遷
世田谷で初めての鉄道となる玉電は渋谷〜玉川間の路線でスタートを切りましたが、当初は大山道(現:国道246号線)ではなく黒駒道(現:世田谷通り)に沿って世田谷〜生田間を結ぶ路線として計画されました。その後、都心方面に加えて二子方面への延伸が目指された中で、最終的に渋谷〜玉川間だけが実現しましたが、それ以降もさまざまな路線延長が計画されました。その多くは実現しませんでしたが、当時の玉電は城南地域一円に路線網を張り巡らせようとする大きな野望を持っていたことが垣間見えます。
当時の文献や申請書類をもとに、東は金杉橋、西は国分寺、南は神奈川、北は新宿へと目指された玉電の敷設計画をまとめました。
このページ内の各年表は玉電歴史年表から敷設計画に関する出来事を抜粋したものです。
世田谷〜生田間
世田谷で初めて本格的に鉄道敷設を計画したのは武相中央鉄道でした。この敷設計画が明らかになると世田谷の地域住民は対応を協議し、地域の名士らが中心となって玉川砂利電気鉄道の計画を立ち上げました。当初の計画は、現在の世田谷中央病院付近に設置予定だった武相中央鉄道の停車場を起点に、旧大山道から黒駒道に入り、和泉から多摩川を渡って生田までを結び、多摩川の砂利や生田付近の名産だった長尾の氷などを武相中央鉄道経由で都心に運び込む貨物輸送を主目的としていました。
多摩川への架橋は現実的ではなく、神奈川県にまたがることで申請関係も煩雑となることから、生田への路線は早々諦めましたが、当時の複数の文献によると1897年9月に世田谷〜和泉間の特許を得ることができたようです。
ただ、すでにこの頃には武相中央鉄道の計画が暗礁に乗り上げており、他の手段で都心方面を目指さなくてはなりませんでした。都心まで距離のあった和泉への敷設計画は次第にクールダウンし、着工されず立ち消えとなったようです。特許状の返納時期は不明ですが、1904年の文献に掲載された路線図には和泉方面の特許線が描かれておらず、この時点までには計画中止となっていたと考えられます。
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玉川砂利電気鉄道株式会社が世田谷〜生田間の軌道敷設を出願
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玉川砂利電気鉄道が和泉〜生田間の出願取下げを申請
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玉川砂利電気鉄道が世田谷〜和泉(登戸渡船場)間の軌道敷設特許を取得
青山七丁目〜二子渡船場間・赤羽橋〜大坂上間・三軒茶屋〜上町〜弦巻間・和泉〜調布間
玉川砂利電気鉄道とは別に、1896年7月に立ち上がった玉川電気鉄道が全く別の鉄道敷設計画を進めていました。この玉川電気鉄道は経営者も別でしたが、一部の発起人が重複しており、両社間で一定の関係はあったものと考えられます。玉川電気鉄道では大山道沿いに新橋〜玉川間・三軒茶屋〜世田谷間が出願されており、当初玉川砂利電気鉄道は並行区間を除いて路線延長を出願していたようですが、1900年6月に並行区間も含めた形に変更されており、この頃には玉川電気鉄道の計画が消滅していたものと考えられます。ただ、両者が合併したのか、事業の引継ぎ等があったのかも含め、この経緯に関する明確な資料は見つかっていません。
1902年2月、玉川砂利電気鉄道は渋谷〜玉川間と三軒茶屋〜世田谷間の特許を得ると、その直後に玉川電気鉄道へ商号を変更し、資金難による工事の中断や経営陣の交代を乗り越えて、1907年に渋谷〜玉川間の開通にこぎつけました。
ただ、当時沿線人口が少なかった三軒茶屋〜世田谷間は資金難のため後述の和泉再延伸計画とともに実現できず、特許状の命令書から同区間が削除されました。
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玉川砂利電気鉄道が青山七丁目〜大坂上間、上町〜二子渡船場間、岩戸〜調布間の路線延長を出願
大坂上〜世田谷間は玉川電気鉄道に乗り入れる想定だったと考えられるが詳細不明。
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玉川砂利電気鉄道が延長線を青山七丁目〜二子渡船場間、赤羽橋〜大坂上間、三軒茶屋〜上町〜弦巻(現:用賀付近)間、和泉(登戸渡船場)〜調布間に変更して出願
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玉川砂利電気鉄道が渋谷〜玉川間・三軒茶屋〜世田谷間の軌道敷設特許を取得
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渋谷〜玉川間・三軒茶屋〜世田谷間の軌道敷設工事施行認可を申請
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三軒茶屋〜玉川間の軌道敷設工事施行認可を申請
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三軒茶屋〜玉川間の軌道敷設工事施行認可を取得
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道玄坂上〜三軒茶屋間の軌道敷設工事施行認可を申請
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道玄坂上〜三軒茶屋間の軌道敷設工事施行認可を取得
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渋谷〜道玄坂上間の軌道敷設工事施行認可を申請
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道玄坂上〜玉川間の軌道敷設工事を開始
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渋谷〜道玄坂上間の軌道敷設工事施行認可を取得
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道玄坂上〜三軒茶屋間2.6km(後に玉川線と呼称)が開通
1,067mm軌間で全線複線。
道玄坂上停留場、大坂上停留場、大橋停留場、池尻停留場、三軒茶屋停留場が開業した。
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三軒茶屋〜玉川間6.0km(後に玉川線と呼称)が開通
1,067mm軌間で三軒茶屋〜用賀間は単線、用賀〜玉川間は複線。
上馬引沢停留場、駒沢停留場、駒沢新町停留場、用賀停留場、瀬田前停留場、玉川停留場が開業した。
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渋谷〜道玄坂上間0.5km(後に玉川線と呼称)が開通
1,067mm軌間で全線複線。渋谷停留場が開業した。これにより渋谷〜玉川間の全線が開通した。
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三軒茶屋〜世田谷間(世田谷線)の軌道敷設特許廃止、世田谷〜和泉間(登戸線)の特許状返納を申請
渋谷〜三田三丁目間・麻布本村町〜金杉町間
出願書類は見つかっていませんが、当時の文献によれば、渋谷から都心方面を目指して市内線として2系統の路線延長が出願されたとあります。青山と三田では東京市街鉄道と、広尾と三ノ橋では東京電気鉄道と接続する計画でした。当時の市販の路線図にも計画線として記載されていますが、その後出願が却下されたのか取下げたのかも含め、動静に関わる資料は見つかっていません。
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渋谷〜三田三丁目間、麻布本村町〜金杉町間の軌道敷設を出願
青山北町六丁目、麻布三軒家町を経由し、麻布本村町で分岐して三の橋を渡り三田三丁目まで、二の橋を渡り金杉町までの計画だった。
蒲田〜国分寺間
出願書類は見つかっていませんが、当時の文献によれば、官営鉄道の蒲田停車場を起点に、池上本門寺を経由し、用賀で玉電の特許線と接続し、そのまま直線で甲州街道の下布田駅国領、府中駅を通り、甲武鉄道の国分寺停車場で川越鉄道と「直接の連絡を爲す」21マイルの軌道敷設が出願されたとあります。その後出願が却下されたのか取下げたのかも含め、動静に関わる資料は見つかっていません。
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蒲田〜国分寺間の軌道敷設を出願
池上本門寺、用賀、国領、府中を経由し、用賀では特許線と接続し、国分寺で川越鉄道に乗り入れる計画だった。
渋谷〜千駄ヶ谷間(千駄ヶ谷線)
出願書類によれば、東京市内への砂利配給が主目的とされていましたが、終点の千駄ヶ谷周辺一帯は当時日本大博覧会の第一会場に決定しており、その観客輸送も見込んでいたと考えられます。1911年10月にこの出願は却下され、その直後に博覧会の中止も決定されています。
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渋谷〜千駄ヶ谷間(千駄ヶ谷線)の軌道敷設を出願
渋谷から神宮通りで山手線をくぐり、明治通りに合流して原宿警察署付近からは専用軌道となり、東京体育館付近で千駄ヶ谷停車場と接続する計画だった。
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渋谷〜千駄ヶ谷間(千駄ヶ谷線)の軌道敷設が却下
渋谷〜北品川間
出願書類は見つかっていませんが、当時の事業報告書に経過地ほか計画の記述がみられます。その後出願が却下されたのか取下げたのかも含め、動静に関わる資料は見つかっていません。
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渋谷〜北品川間の軌道敷設を出願
恵比寿、中目黒、下目黒、桐ヶ谷、五反田を経由する計画だった。
玉川〜神奈川間
出願書類に路線延長の目的についての記載はありませんが、開通にあわせて客車25両と貨車50両に加えて客車5両を増備し、客車単独または貨車1両を連結して運行する計画とあることから、終点から程近い横浜港への貨物輸送を企図したものだったと想像できます。その後出願が却下されたのか取下げたのかも含め、動静に関わる資料は見つかっていません。
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玉川〜神奈川間の軌道敷設を出願
溝ノ口、末長、蟹ヶ谷、日吉、綱島、菊名を経由する計画だった。
世田谷〜和泉間(登戸線)
1907年に渋谷〜玉川間が開通しますが、特許線の三軒茶屋〜世田谷間は着工すらできていませんでした。出資者には世田谷村の名士らも含まれており、三軒茶屋〜世田谷間の早期敷設と、用賀〜登戸間の敷設計画の復活を要求する声があがりました。そこで一度消滅していた世田谷〜和泉間を再度出願することになったようです。1897年の特許区間とは和泉付近の経路が若干異なり、喜多見付近で黒駒道から離脱して、鎌田から多摩川沿いに駒井を経由するルートとされていました。一度特許を得ていた区間だったからか、比較的早く特許が得られたものの、1911年11月に特許状返納の手続きが取られ、三軒茶屋〜世田谷間とともに計画中止となりました。
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世田谷〜和泉間の軌道敷設を出願
1897年9月に同区間の特許を取得していたが、遅くとも1904年頃には失効または返納していたと思われる。
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世田谷〜和泉間の軌道敷設特許を取得
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三軒茶屋〜世田谷間(世田谷線)の軌道敷設特許廃止、世田谷〜和泉間(登戸線)の特許状返納を申請
大坂上〜大森間・上馬引沢〜目黒・戸越〜五反田間
出願書類に路線延長の目的についての記載はありませんが、この頃から城南全域に路線網を拡大する意向を持っていたと思われ、各方面への路線延長の出願が活発となっていきました。1922年には現在の山手通りが都市計画決定されたため、出願路線も計画道路にあわせたルートに変更されましたが、特許が下りることはありませんでした。
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大坂上〜大森間、上馬引沢〜目黒間、戸越〜五反田間の軌道敷設を出願
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1917年1月25日の出願区間を大橋(氷川神社前)〜下目黒間(上目黒線)、下目黒〜御殿山間(品川線)に変更
旧出願区間は大坂上〜大森間、上馬引沢〜目黒間、戸越〜五反田間。
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渋谷〜東北沢間(代々幡線)、道玄坂上〜新宿追分間(新宿線)、大橋(氷川神社前)〜下目黒間(上目黒線)、下目黒〜御殿山間(品川線)の出願取下げを申請
渋谷〜天現寺橋間(広尾線)・渋谷橋〜中目黒間(中目黒線)
路線網拡大基調の中で出願された路線ですが、天現寺橋での東京市電との乗入れによる市中への砂利輸送との大義があったことからか、わずか半年余りで特許が得られています。玉電で唯一山手線内を通る路線となりました。この区間は、かつての城南鉄道のニノ橋〜世田谷間の免許線と並行していましたが、この頃には免許が武蔵電気鉄道の手に渡り、同社の免許線に接続して広尾〜ニノ橋間に短縮されていました。
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渋谷〜天現寺橋間、渋谷橋〜中目黒間の軌道敷設を出願
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渋谷〜天現寺橋間、渋谷橋〜中目黒間の軌道敷設特許を取得
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渋谷〜渋谷橋間の軌道敷設工事施行認可を申請
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渋谷〜渋谷橋間の軌道敷設工事施行認可を取得
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渋谷橋〜天現寺橋間の軌道敷設工事施行認可を申請
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渋谷橋〜天現寺橋間の軌道敷設工事施行認可を取得
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渋谷〜恵比寿駅前間1.5km(開通時は広尾線、後に天現寺線と呼称)が開通
稲荷橋停留場、並木橋停留場、渋谷町役場前停留場、比丘橋停留場、恵比寿駅前停留場が開業した。
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恵比寿駅前〜天現寺橋間1.0km(開通時は広尾線、後に天現寺線と呼称)が開通
新橋停留場、豊沢橋停留場、天現寺橋停留場が開業した。
特許書類によれば開通時は広尾線、東京横浜電鉄合併後は軌道線が玉川線と総称されるようになったが、東京都譲渡時の申請書類には天現寺線と表記されている。
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渋谷橋〜鎗ヶ崎間の軌道敷設工事施行認可を申請
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渋谷橋〜中目黒間の軌道敷設工事施行認可を取得
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渋谷橋〜中目黒間1.4km(中目黒線または目黒線)が開通
長谷戸停留場、鎗ヶ崎停留場、中目黒停留場が開業した。
玉川〜砧間(砧線)
出願書類が見つかっておらず、出願時期は不明ですが、砧付近の多摩川からの砂利の出荷という大きな役目を持ち、貨物輸送の命運を握る計画だったと言えます。それまでは電動貨車5両と付随貨車20両で細々と貨物営業が行われていましたが、砧線の敷設にあわせて渋谷には東京市電との連絡線の敷設も進められ、砧線の開通とともに東京市電から大型の乙1000形電動貨車が貨車を何両も従えて乗り入れるようになりました。
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玉川〜砧間の軌道敷設特許を取得
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玉川〜砧間の軌道敷設工事施行認可を申請
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玉川〜砧間の軌道敷設工事施行認可を取得
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玉川〜砧間2.2km(砧線)が開通
中耕地停留場、吉沢停留場、大蔵停留場、砧停留場が開業した。
三軒茶屋〜下高井戸間(世田谷線)
三軒茶屋〜世田谷間は特許を得ていながら計画中止となった苦い過去がありましたが、地域住民からの請願によって、三軒茶屋〜上町間の線路敷の寄進が約束されたことから、終点を下高井戸に変えて再始動が図られました。当時京王電気軌道とは電気の供給を行うなど近い関係にあり、住民が増加していた京王沿線の中から、上町から最短となる下高井戸が選ばれたと想像できます。
世田谷線の歴史については世田谷線開通100周年 〜農村から住宅地へ、地域の発展を見つめ続けて一世紀〜もあわせてご覧ください。
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三軒茶屋〜下高井戸間の軌道敷設を出願
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三軒茶屋〜下高井戸間の軌道敷設特許を取得
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三軒茶屋〜世田谷(現:上町)間の軌道敷設工事施行認可を申請
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世田谷(現:上町)〜下高井戸間の軌道敷設工事施行認可を申請
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三軒茶屋〜世田谷(現:上町)間の軌道敷設工事施行認可を取得
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世田谷(現:上町)〜下高井戸間の軌道敷設工事施行認可を取得
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三軒茶屋〜世田谷間2.1km(世田谷線)が開通
西山停留場、若林停留場、松陰神社前停留場、世田谷停留場が開業した。その後、同区間の営業キロは1940年代の三軒茶屋付近の線形変更を経て、2.0kmとなっている。
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世田谷〜下高井戸間3.1km(世田谷線)が開通
上町停留場、豪徳寺前停留場、宮ノ坂停留場、山下停留場、六所神社前停留場、七軒町停留場、下高井戸停留場が開業した。
これにより現在の世田谷線区間の全線が開通した。
玉川〜溝ノ口間(溝ノ口線)
出願当時の玉川停留場は現在よりも南側にあったことから、当初の計画では玉川を出るとヘアピンカーブで北へ進んで二子橋を渡る線形とされていました。その後玉川停留場自体が北側に移設されることになり、空いた南側のスペースの一部は目黒蒲田電鉄に売却され大井町線の二子玉川駅となりました。後述する目黒玉川電気鉄道の駅もこのスペースに設置される計画だったようです。
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設を出願
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玉川〜溝ノ口の軌道敷設特許を取得
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二子橋が完成
玉川〜溝ノ口間の早期開通を目論見、玉川電気鉄道が建設費52万円のうち15万円を負担した。
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設工事施行認可を申請
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設工事施行認可を取得
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玉川〜溝ノ口間の軌道敷設工事、玉川停留場の移設工事が竣工
二子橋を経由するため、玉川停留場が北側に移設された。
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玉川〜溝ノ口間2.2km(溝ノ口線)が開通
二子停留場、高津停留場、溝ノ口停留場が開業した。
渋谷〜東北沢間(代々幡線)
出願書類によれば、東京帝国大学の通学利用を見込むほか、小田原急行鉄道との接続による利便性向上が目的とされていました。当時はまだ井の頭線の開通前で、すでに住宅街が形成されていた松濤や富ヶ谷を通る路線は十分商機があったと考えられますが、特許が下りることはありませんでした。この路線が実現していれば、当時毎日富ヶ谷から渋谷駅前に通っていたハチ公も乗ってきたかもしれませんね。
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渋谷〜東北沢間(代々幡線)の軌道敷設を出願
東京帝国大学の北側を通る計画だった。
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渋谷〜東北沢間(代々幡線)、道玄坂上〜新宿追分間(新宿線)、大橋(氷川神社前)〜下目黒間(上目黒線)、下目黒〜御殿山間(品川線)の出願取下げを申請
砧〜狛江間(砧線)
出願書類によれば、砧から多摩川沿いを通って小田原急行電鉄の多摩川停車場(現:和泉多摩川駅)に接続することによる、交通空白地の利便性向上と土地開発の促進が目的とされていました。この区間は特許が得られ、東京急行電鉄への経営に変わってからも20年以上維持されていましたが、後述する荒玉浄水場への免許申請を理由に計画が中止されました。砧線は1945年10月に軌道法から地方鉄道法へ変更されたのは、この特許線を利用して大井町線と小田急線を接続する意図があったのではないかと想像できますが、地方鉄道法の申請文書では砧線は新設軌道で実態に合わせたものとの記載に留まっています。
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砧〜狛江間(砧線)の軌道敷設を出願
途中に宇奈根、陣屋、本村、緒方停留場を設置、小田急和泉多摩川駅に隣接して狛江停留場を設置する計画だった。
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砧〜狛江間(砧線)の軌道敷設特許を取得
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砧〜狛江間(砧線)の軌道起業廃止を申請
上町〜荒玉浄水場間の地方鉄道免許申請が理由とされた。
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砧〜狛江間(砧線)の軌道起業廃止が許可
中目黒〜玉川間(等々力線)
出願書類に路線延長の目的についての記載はありませんが、東京府の上申書には中目黒と玉川を繋げることで環状運転が可能となり効率化が見込まれるとの意見がみられます。あわせて目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄の計画には影響しないとの見解も示されています。中目黒線の開通によって、一連の路線延長計画の中では最も実現の可能性が高い路線だったと考えられますが、後述する目黒蒲田電気鉄道と並行していたことが影響したのか、特許が下りることはありませんでした。
東京横浜電鉄の計画には影響しないと判断されたものの、明らかに敵対路線だったと言える計画でもあり、同社との合併後すぐに出願が取り下げられました。
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中目黒〜玉川間(等々力線)の軌道敷設を出願
祐天寺、碑文谷、柿の木坂、等々力、下野毛を経由する計画だった。
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中目黒〜玉川間(等々力線)、五本木〜真中間(目黒駒沢線)の出願取下げを申請
道玄坂上〜新宿追分間(新宿線)
出願書類に路線延長の目的についての記載はありませんが、新宿での東京市電や京王電気軌道との接続を重視していたものと考えられます。特許が下りることはなく、不況により経営に陰りでていた1935年12月に他の計画とともに出願が取り下げられました。
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道玄坂上〜新宿追分間(新宿線)の軌道敷設を出願
道玄坂上から分岐して、そのまま併用軌道で神宮通りに入り、明治通りに合流して京王線新宿追分駅に接続する計画だった。
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渋谷〜東北沢間(代々幡線)、道玄坂上〜新宿追分間(新宿線)、大橋(氷川神社前)〜下目黒間(上目黒線)、下目黒〜御殿山間(品川線)の出願取下げを申請
五本木〜真中間(目黒駒沢線)
前述した中目黒〜玉川間の出願線と玉川線を接続する支線として計画されました。1929年には後発の目黒玉川電気鉄道がほぼ並行する清水〜駒沢間の免許を取得しており、この出願線には特許が下りることはありませんでした。もっとも、目黒玉川電気鉄道は玉川電気鉄道の事実上の関連会社であり、どちらが権利を持っていても大勢に影響はなかったのかもしれません。
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五本木〜真中間(目黒駒沢線)の軌道敷設を出願
碑文谷、下馬、野沢を経由する計画だった。
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中目黒〜玉川間(等々力線)、五本木〜真中間(目黒駒沢線)の出願取下げを申請
上町〜荒玉浄水場間
これまでの敷設計画は全て玉川電気鉄道時代のものでしたが、この敷設計画は東京急行電鉄によって出願されたものです。第二次世界大戦後、人口急増により玉川線の輸送力が限界に達しており、1946年に東京急行社内に玉川線の輸送力増強対策委員会が設置され、多方面から対策が検討されました。この計画はその一つとして策定され、開通後は段階的に玉川線を鉄道に転換して、最終的には都心方面への乗り入れを目指すとされており、新玉川線計画の前身とも言えるものでした。
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上町〜荒玉浄水場間の地方鉄道敷設免許を出願
途中に農大前、三本杉、大蔵、宇奈根駅を設置し、玉川線を鉄道に転換のうえ、地下鉄に乗り入れ都心方面に直通する計画だった。
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上町〜荒玉浄水場間の出願取下げを申請
玉川電気鉄道の経営陣が主導した目黒玉川電気鉄道の敷設計画
1926年8月に目黒玉川電気鉄道により目黒〜等々力間、目黒町役場〜鷹番間の鉄道敷設が出願されました。1927年4月に目黒〜等々力間の免許を取得後、12月に会社が設立されますが、その本社所在地は玉川電気鉄道の本社と同一の住所で、初代社長に就任したのも玉川電気鉄道の代表取締役専務だった津田興二氏でした。玉川電気鉄道の当時の営業報告書には特に目黒玉川電気鉄道との関係を示す記載はなく、直接の資本関係はなかったと思われますが、役員の大半は玉川電気鉄道の役員が就任しており、事実上は玉川電気鉄道の関連会社として、その意向が大いに反映されていたものと考えられます。
当時の玉川電気鉄道は、目黒蒲田電鉄や東京横浜電鉄の営業エリアへの参入を目論み、前述の通り多くの路線延長を出願していましたが、いずれも特許は得られていませんでした。目黒玉川電気鉄道の経営権を得ることで、目黒界隈を縦断する鉄道免許をなんとしても確保し、城南地域に風穴を開けたかったという強い意志が感じられます。1928年には終点を等々力から玉川に変更、清水〜駒沢間の支線の路線延長も出願され、玉電との接続が強化されました。
ところが、目黒〜清水間を第一工区として着工に漕ぎ着けるも、用地買収に手間取ったうえ、目黒競馬場の移転が遅れたこともあり工事は進みませんでした。幾度かの工事期限延長が申請されるうちに、世界恐慌後の不況によって本体の経営も厳しくなり、1935年に敷設が中止され、会社解散となりました。
玉川電気鉄道の手で城南地域一円に交通網を張り巡らせる夢が破れ、ライバル視していた東京横浜電鉄の傘下に入るのは、その1年後の1936年10月のことでした。
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目黒玉川電気鉄道株式会社創立発起人により目黒〜等々力間、目黒町役場〜鷹番間の鉄道敷設免許を出願
発起人総代は貴族院議員の池田長康氏。本線は荏原郡大崎町を起点に、目黒町、碑衾村を通り玉川村が終点とされ、支線は目黒町役場から分岐して碑衾村鷹番が終点とされた。
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目黒玉川電気鉄道等々力〜長谷間の鉄道敷設免許を出願
荏原郡玉川村を起点に、神奈川県橘樹郡中原村、橘村、都筑郡新田村、都田村、橘樹郡城郷村、都筑郡西谷村、二俣川村、鎌倉郡川上村、中川村、戸塚町、高座郡藤沢町、鎌倉郡村岡村、深沢村を通り鎌倉町が終点とされた。
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目黒玉川電気鉄道目黒〜等々力間の鉄道敷設免許を取得
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目黒玉川電気鉄道株式会社が設立
資本金は500万円、本社は玉川電気鉄道本社所在地と同一、社長は玉川電気鉄道専務(代表取締役)の津田興二氏が兼務。
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目黒玉川電気鉄道等々力〜長谷間の鉄道敷設が却下
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目黒玉川電気鉄道が目黒〜等々力間から目黒〜玉川間への免許区間の変更を申請
経過地に駒沢村を追加。
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目黒玉川電気鉄道清水〜駒沢間(駒沢支線)の鉄道敷設免許を出願
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目黒玉川電気鉄道目黒〜等々力間から目黒〜玉川間への免許区間の変更が認可
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目黒玉川電気鉄道清水〜駒沢間(駒沢支線)の鉄道敷設免許を取得
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目黒玉川電気鉄道目黒〜清水間の鉄道敷設工事認可を取得
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目黒玉川電気鉄道目黒〜清水間の工事に着手
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目黒玉川電気鉄道が定時株主総会で地方鉄道起業廃止と会社解散を決議
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目黒玉川電気鉄道の地方鉄道起業廃止が許可、会社解散が認可