輸送人員の変遷

 渋谷〜玉川間が開通した翌年、1908年度の1年間の輸送人員はわずか約73万人でした。当時の沿線は郊外移転でやってきた軍施設が点在する程度で、まだ沿線人口は少なかったうえ、渋谷〜三軒茶屋間の運賃6銭は現在の価値に換算すると2,000円程度と高額だったことから、玉電が開通しても電車には乗らず歩く人が多かったと言います。
 最初は庶民には手が届きづらい高価な乗り物でしたが、玉電では終点の玉川に遊園地を開発して行楽客を集め、沿線の発展促進を目指して電灯事業にも乗り出すなど積極的な利用拡大策を講じました。その甲斐もあって、都心から移転してくる住民によって住宅街が形成されはじめ、少しづつ沿線利用者を獲得していきました。
 1920年代からは都心に伸びる広尾線や世田谷の中央部を結ぶ世田谷線などの支線が次々に開通したことで、輸送人員は世界恐慌や第二次世界大戦の時期を除くと右肩上がりで増えていき、1958年度には1908年度の実に88倍以上となる約6,457万人を記録するまでになりました。ところが、同年をピークに輸送人員は減少に転じます。路面電車の宿命とも言える自動車の台頭によって、玉電は定時運行が難しくなり、通勤経路を変えたり別の交通手段に切り替えたりする住民が次第に増えていきました。追い打ちをかけるように玉電の地下に新玉川線、頭上には首都高速道路が建設されることになり、紆余曲折の末に玉電はその役目を終えることになりました。
 一方、専用軌道が中心の三軒茶屋〜下高井戸間は、交通渋滞にほとんど左右されることはなく、定時性が確保されていたことから利用者に大きな減少は見られず、玉電廃止後も世田谷線として存続されることになりました。以来、世田谷区内で貴重な南北の交通手段として、安定的な輸送人員が維持されています。



各年度の輸送人員は以下のデータをもとにしています。各出典により輸送人員の算出方が異なる可能性がありますのでご了承ください。なお、1972〜2021年度は出典の関係から千人単位の数値となっています。

  • 1907年度 逓信省通信局「電気事業要覧」第1回(1907年)
  • 1908〜1915年度 東京市役所「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(1928年)
  • 1916〜1971年度 東京急行電鉄株式会社「東京急行電鉄50年史」(1973年) ※1944年度データ欠落
  • 1972〜2021年度 東急株式会社「東急100年史」(2023年)

各時代別の輸送人員推移

 開通当時は玉川への行楽客や軍施設への用務者などが乗客の中心で、この時期の事業報告書には天候が乗客数の増減を握る大きな要因として挙げられており、まだ沿線利用者は少なかったことが窺えます。1913年には曹洞宗大学(現:駒澤大学)が駿河台から移転し、通学客が多く利用するようになりました。同年は新町住宅の分譲が始まり、現在の駒沢公園一帯には東京ゴルフ倶楽部のゴルフコースも完成するなど沿線の開発が相次いで進められ、この頃から徐々に沿線利用者が定着してきました。1915年度は不景気の影響で一時的に輸送人員が減少しますが、翌年度からは第一次世界大戦を契機とした好景気によって回復し、沿線人口の増加とともに上げ幅も拡大していきました。
 1922年6月には初の延長線となる広尾線渋谷〜恵比寿駅前間が開通し、ここから怒涛の新線ラッシュが始まりました。1924年には砧線と広尾線恵比寿駅前〜天現寺橋間、1925年には世田谷線、1927年には中目黒線と溝ノ口線が開通し、玉電の総延長はそれまでの2倍以上となる22.7kmまで拡大しました。1923年9月に発生した関東大震災以降の住宅地の郊外移転も追い風となって、1928年度の輸送人員は玉電時代の最高値を記録しました。
 ところが、玉電の黄金期は長くは続きませんでした。1930年度からは世界恐慌を起因とした不景気に加え、営業エリアへの乗合自動車の参入もあって輸送人員は急減していきました。玉電でも1927年から乗合自動車事業に参入して巻き返しを図りましたが、軌道事業の不振を電灯・電力など他の事業の収益で穴埋めする状況が続き、次第に経営基盤が不安定になっていきました。玉電の営業エリアを虎視眈々と狙っていた東京横浜電鉄にとって、この隙はまたとないチャンスとなりました。同社は玉電の買収に乗り出し、株式取得が進められていった結果、1937年4月に玉川電気鉄道は東京横浜電鉄への合併によって消滅することになりました。


 東京横浜電鉄の一路線となってからは、沿線の開発がより一層進んだことで輸送力が不足するほどの盛況ぶりとなり、渋谷〜天現寺橋間、渋谷橋〜中目黒間の運行が東京市に委託され、二子読売園〜溝ノ口間が大井町線に編入されてからも、輸送人員は増加を続けました。終戦直後は、疎開や戦災による沿線人口の減少によって一時的に落ち込みを見せますが、戦災復興とともに回復し、輸送力不足の解消が喫緊の課題となりました。1950年には戦後初の新型車両デハ80形の登場により6両が増車され、その後も2両連結運転の拡大や連接車デハ200形の導入など、輸送力増強の対策が図られた結果、1958年度には開通以来過去最高の輸送人員を記録しました。
 ところが、この頃すでに国道246号線には自動車が増加し、特に通勤時間帯は渋滞によって電車の定時運行が難しくなっていました。時間があてにならない玉電は徐々に敬遠されるようになり、翌年度から玉電の輸送人員は減少に転じていきました。1964年の東京オリンピック開催を契機に道路拡張が進められると、輸送人員は一時的に持ち直しましたが、すぐに自動車の増加スピードに追い越され、1968年度には最盛期と比べて年間1,000万人以上が減少する事態となりました。
 こうした状況から、当初玉川線の混雑緩和を目的に、バイパス路線として計画された新玉川線は、次第に玉川線の代替路線として位置付けられるようになり、1968年8月に玉川線渋谷〜二子玉川園間と砧線全線の廃止が決定しました。


 1969年5月に玉川線渋谷〜二子玉川園間と砧線全線が廃止されましたが、全線が専用軌道だった玉川線三軒茶屋〜下高井戸間は、世田谷線として存続することになりました。この区間は環状七号線の西太子堂5号踏切道で交通信号に従って走行する以外は道路交通の影響を受けることがなく、1967年のダイヤ改正では、輸送合理化の一環にも関わらず、下高井戸方面の輸送力は逆に強化されており、一定の輸送人員が確保できていたようです。
 世田谷線となってからの輸送人員は、2010年代までは概ね世田谷区の人口の増減とリンクしており、世田谷線が区民の生活と密接に関わる大事な足であることが窺えます。1976年頃には第一次オイルショック、1992〜1996年頃にはバブル崩壊による人口の落ち込みが見られ、世田谷線の輸送人員にもその傾向が表れています。また、1977年には新玉川線の開通、1992〜1996年には駅前再開発による三軒茶屋駅の仮設移転があったことから、これらの要素も加わっているものと考えられます。
 近年は年間2,000万人前後で安定的に推移していましたが、2020年度には新型コロナウィルスの感染拡大によって移動の抑制が呼びかけられたことから大幅減となり、2021年3月のダイヤ改正では減便とともに終電の繰上げが行われました。新型コロナウィルスの収束とともに、これまで少なかった外国人観光客の利用も増えており、世田谷線の輸送人員は徐々に回復を見せています。