開通にあわせて高橋鉄工所、天野工場で製造された。
電動客車は、写真によればベスチビュールなし・側面10枚窓、ベスチビュールなし・側面8枚窓(明かり取り付き)の2種類存在した。諸元は四輪、定員40人、自重6.0t、台車はブリル21-E(「電気事業要覧」では「ブリルE12号形」とあるが誤記と思われる)、主電動機はGE58形(37馬力)2個搭載。
無蓋貨車の諸元は四輪、空車自重3.0t、最大積載量10t。
玉川電気鉄道 狭軌車両 1907年〜1920年
電動客車1〜15号 付随客車1〜7号 無蓋貨車1〜20号
1907年の玉川電気鉄道開通に合わせ、四輪電動客車10両と無蓋貨車20両が高橋鉄工所、天野工場で製造されたとされています。この頃の公文書は震災や戦災により消失しているものが多く、当時の詳細な資料が殆ど発見されていないことから詳細は不明ですが、開通時点で電動客車は少なくとも2種類が存在しました。残された数少ない写真によると電動客車1・3号はベスチビュールなし・側面10枚窓で、2号はベスチビュールなし・側面8枚窓(側窓上に明かり取り付き)であったことがわかります。開通2年前の1905年に執筆された技師の寄稿によれば、普通客車のほか米国「ロコモチーブ」製造会社に鋼製の特別客車を発注するとありますが、これは実現しておらず、比較的窓が大きい2号のスタイルの車両は特別客車の意味合いで作られたとも考えられます。どちらの車両にも採用されていたかは不明ですが、開通当時の車内は絨毯が敷かれ、窓にはカーテンが設備されていたようです。
電動客車は1912年に2両、1914年に3両が増備されて15両となりました。増備された電動客車14号の写真が残されており、ベスチビュールが付き前面3枚窓・側面8枚窓で飾り帯がつけられていたことがわかります。
車体色は前述の寄稿によれば「可成淡白を旨とし混雑なる色飾を行はず」、また証言によれば腰部の塗装は「チョコレート色」だったといいます。車番はローマン体で側面中央に記されていました。なお当時の写真には、電動客車1・3号のスタイルで車体が茶色一色塗りと思われるもの、電動客車14号と同様のスタイルで飾り帯を廃して梁やシルヘッダーも同色で塗り潰した簡易塗装のものもあり、途中で何度か塗り分けを変更していた可能性があります。
無蓋貨車は11・17号の写真が残されており、いずれも同じ形状で当時の標準的な四輪無蓋貨車スタイルでした。電動貨車の腰部よりも薄い色合いであることから無塗装ニス塗りまたは薄茶色に塗られていたと推測しています。車番はローマン体で側面の左右2箇所と妻面1箇所に記されていました。
付随客車は1913年に4両、1916年に3両が入線しています。当時の関係者の記念写真の背景にベスチビュールなし・側面8枚窓の付随客車が写っていますが、車番が隠れており7両が同一仕様だったのかは不明です。車体色は電動客車と同様だったようです。
貨物輸送にあたって機関車は用意されず、電動客車が無蓋貨車を牽引するため、台枠は牽引衝撃に耐えられる堅牢な作りにされたといいます。また1,067mm軌間は日本鉄道等の蒸気鉄道(後の国鉄・JR線)への貨物連絡運輸を目論んで採用されており、その仕様に合わせた連環式連結器とバッファーが備えられています。
ところが貨物連絡運輸は東京市電との相互乗入れで行うことになり、開通からわずか13年後の1920年9月、1,372mm軌間への改軌によって、42両の狭軌車両は玉電での短い役目を終えました。電動客車と付随客車は、上田温泉電軌(現:上田電鉄)と駿遠電気(現:静岡鉄道)に譲渡されました。上田温泉電軌では1921年6月の青木線、別所支線(現:別所線)開通にあわせて電動客車2両と付随客車4両が入線、同年中に電動客車7両が追加され、一部車両は西丸子線に転じて1960年代まで使用されました。この譲渡は青木線沿線出身の五島慶太が斡旋したと言われています。また駿遠電気(現:静岡鉄道)では、1920年8月の現在の静岡清水線電化にあわせて電動客車3両と付随客車3両が入線し、その後秋葉線に転じて同線が廃止となる1962年9月まで使用されました。無蓋貨車は、改軌後に導入された車両と車両数や車体形状が一致することから、改軌のうえ転用されたものと考えられます。
特別客車計画について
1905年に発行された工業雑誌社「工業雑誌」第307号に、玉川電気鉄道の吉武唯一技師による「玉川電気鉄道工事設計」が寄稿されています。
そこには電動客車と無蓋貨車のほか「強風雨雪等の際普通客車にて坂路の運転困難なる場合及夜間若くは乗客非常に多く附従客車の必要ある際に使用する目的を以て特別客車を製造せり」とあります。
車体は全金属製で、米国「ロコモチーブ」製造会社(アメリカン・ロコモティブ社と思われますが、当時トラム用蒸気動車を製造していたボールドウィン・ロコモティブ・ワークス社の可能性もあります)が設計・製造する計画だったようです。
狭軌時代には最大15両の電動客車が活躍したとされていますが、この特別客車が実際に活躍した記録は見当たらず、何らかの事情で実現しなかったと考えられます。
掲載したイラストは、寄稿文中の図面をもとに開通当時の塗り分けを配して作成したものです。
最大寸法 | 長さ17ft6in×幅6ft×高さ10ft6in |
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自重 | 7.0t |
定員 | 20人 |
主電動機 | GE58 37馬力 |
制御装置 | K10 ゼネラル・エレクトリック |
ブレーキ装置 | 手用ブレーキ(スターリング式) |
製造所 | 米国「ロコモチーブ」製造会社 |
玉電歴史年表から
玉電歴史年表から狭軌時代の各車両に関する出来事を抜粋しています。
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(狭軌)電動客車1〜10号、無蓋貨車1〜20号が運転開始
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【月日不詳】(狭軌)電動客車11・12号が運転開始
※運転開始月日が不詳のため、年末である12月31日で登録しています。
天野工場により電動客車2両が増備された。増備車の車体形状は不明、諸元は従来車両と同一。
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【月日不詳】(狭軌)付随客車1〜4号が運転開始
※運転開始月日が不詳のため、年末である12月31日で登録しています。
天野工場製の付随客車4両が導入された。写真によればベスチビュールなし・側面8枚窓の写真が残されているが、車番が判別できずこのグループかは不明。諸元は四輪、定員35人、自重2.7t。
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【月日不詳】(狭軌)電動客車13〜15号が運転開始
※運転開始月日が不詳のため、年末である12月31日で登録しています。
天野工場により電動客車3両が増備された。写真によればベスチビュール付き・側面8枚窓。諸元は従来車両と同一。
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【月日不詳】(狭軌)付随客車5〜7号が運転開始
※運転開始月日が不詳のため、年末である12月31日で登録しています。
天野工場により付随客車3両が増備された。写真によればベスチビュールなし・側面8枚窓の写真が残されているが、車番が判別できずこのグループかは不明。増備車の諸元も不明。
これ以降1920年の改軌まで車両増備はなく、最終的な1,067mm軌間の車両数は電動客車15両、付随客車7両、無蓋貨車20両の42両となった。
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狭軌車両が使用終了
改軌により全42両が使用を終了した。
電動客車、付随車は上田温泉電軌、駿遠電気に譲渡された。廃車日は不詳。
上田温泉電軌に譲渡された車両は、1921年6月の青木線・別所支線(現:別所線)開通にあわせて電動客車2両と付随客車4両、同年中に電動客車7両が入線し、一部車両は1960年代まで使用された。
駿遠電気(現:静岡鉄道)に譲渡された車両は、1920年8月の現在の静岡清水線電化にあわせて電動客車3両と付随客車3両が入線し、その後秋葉線に転じて1962年9月の廃止まで使用された。
無蓋貨車は、改軌後の無蓋貨車1〜20号と車両数や車体形状が一致することから、改軌のうえ転用されたものと考えられる。
主要諸元表
「電気事業要覧」、「工業雑誌」に記載されたデータを掲載しています。
最大寸法 | 長さ24ft×幅6ft×高さ11ft |
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自重 | 6.0t |
定員 | 40人 |
台車 | ブリル21-E(※要覧には「ブリルE12号形」とありますが誤記と思われます) |
主電動機 | GE58 37馬力 |
制御装置 | K10 ゼネラル・エレクトリック |
ブレーキ装置 | 手用ブレーキ(スターリング式) |
製造所 | 高橋鉄工所 天野工場 |
最大寸法 | 長さ18ft×幅6ft×車体深さ2ft |
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自重 | 3.0t |
最大積載量 | 10t |
台車 | 2軸 |
ブレーキ装置 | 手用ブレーキ(スターリング式) |
製造所 | 高橋鉄工所 天野工場 |
自重 | 2.7t |
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定員 | 35人 |
台車 | 四輪 |
製造所 | 天野工場 |