公文書に見る世田谷線の路線名

 皆さんは世田谷線のことを普段どう呼んでいらっしゃるでしょうか。「玉電(たまでん)」と呼ばれている方は、1969年以前から世田谷線沿線にお住まいの方でしょうか。最近は「世田線(せたせん)」と略して呼ばれている方も見かけます。
 現在の世田谷線の路線名は、1969年に玉川線渋谷〜二子玉川園間の廃止に伴い、同じ玉川線の一部だった三軒茶屋〜下高井戸間を改称して誕生した名称ですが、1921年に出願された軌道敷設特許の申請書類には今と同じ「世田谷線」と表記され、1925年には玉川電気鉄道世田谷線として開通しています。その後、東京横浜電鉄との合併を経て玉川線に統合されましたが、その時期ははっきりとせず、1940年代の公文書には世田谷線と玉川線の表記が混在しています。また、当時の地図や書籍には「下高井戸線」など別の名称が見受けられ、さらに利用者からも思い思いの名前で呼ばれていたようです。
 このページでは、2025年11月16日に世田谷線開通100周年記念事業として世田谷図書館主催で行われた講演会「わたしたちの世田谷線 走り続けた100年」の内容をもとに、主に公文書の表記から世田谷線の路線名の変遷について概説します。

三軒茶屋〜下高井戸間は計画当初から「世田谷線」

1921年 三軒茶屋〜下高井戸間軌道敷設特許出願

 地域の地主160名の請願を契機に、1921年6月に玉川電気鉄道によって三軒茶屋〜下高井戸間の軌道敷設特許が出願されました。その出願書類のうち、計画ルートを示した地図の標題に初めて「世田谷線」の表記が登場します。ただし、明治期に計画された三軒茶屋〜世田谷間の特許線も、同社の事業報告書によれば「世田ヶ谷線」とされていました。渋谷〜玉川間の開通が優先されたことで実現が困難となり、1911年3月に特許廃止となっています。

世田谷線三軒茶屋〜下高井戸間電気軌道敷設特許線延長線路像測図(玉第三三号 電気軌道敷設特許線延長願 別紙)

※図表をもとに作図、地図は地理院タイル(電子国土基本図)をもとに作成

(東京都公文書館所蔵)

1923年 三軒茶屋〜世田谷(現:上町)間敷設工事施行認可申請

 1922年7月に三軒茶屋〜下高井戸間の軌道敷設特許を得て、1923年1月に三軒茶屋〜世田谷(現:上町)間の敷設工事認可申請が提出されました。この件名では、標題だけでなく本文や各図面にも「世田谷線」の表記を複数見ることができます。特許直前に発出された速成願の標題にも「世田谷線」と表記されており、同社内では特許出願後、三軒茶屋〜下高井戸間の新路線を一貫して世田谷線と呼称していたことがわかります。
 この頃、残区間の世田谷〜下高井戸間では測量・設計の遅れで申請期限に間に合わず、開通が危ぶまれたことがありました。一連の誘致活動を主導した地域の有力者たちは、新たな寄附を呼びかける「玉川電鉄世田谷支線期成同盟会」を立ち上げました。その際に、出願時のルートとは別に「勝光院西線」と称する新たなルートが設計されましたが、実現することはなく、1923年7月に概ね当初の計画ルートに沿って同区間の敷設工事認可申請が提出されました。

玉第六號 世田谷線三軒茶屋〜世田谷間電氣軌道新設工事施行認可申請

客年七月二十二日附監第一、三四二號ヲ以テ特許相受候世田谷線ノ一部三軒茶屋世田谷間電氣軌道敷設工事ヲ施行仕リ度候間御許可被成下度候関係書類並ニ圖面相添ヘ此段及申請候也

大正拾貮年壱月二十日 東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷二百二十三番地 玉川電氣鉄道株式會社 専務取締役津田興二

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(東京都公文書館所蔵)

1925年 三軒茶屋〜下高井戸間開通

 1925年1月に三軒茶屋〜世田谷間、同年5月に世田谷〜下高井戸間が開通しました。開通を報じた1925年5月発行の「交通と電気」には「下高井戸線」との記載が見られますが、玉川電気鉄道が発出した運輸開始届には「世田谷線」と表記されており、同社内では開通時点においても世田谷線と呼称していたことがわかります。当時の世田谷は「世田ヶ谷」とも表記され、世田谷線でも一部に「世田ヶ谷線」と表記された公文書が存在しますが、大半は「世田谷線」で統一されています。

玉第一一號 運輪開始御届

大正十四年一月十七日附亥土第四〇六號ヲ以テ御認可相受候世田谷線三軒茶屋上町間ノ一部三軒茶屋、世田谷間ノ運輸営業ヲ本日ヨリ開始致候ニ付軌道法施行規則第十七條第二項二據リ此段御届申上候也

大正十四年一月十八日 東京府豊多摩都渋谷町大字中渋谷二百二十三番地 玉川電氣鉄道株式會社 専務取締役津田興二

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 内務省文書)

玉第 號 運輸開始御届

本年四月廿八日丑士第三三六五號ヲ以テ御認可相受候世田谷線世田谷下高井戸間ノ運輸營業ヲ本日ヨリ開始致候間軌道法施行規則第十七條第二項二據リ此段及御届候也

大正十四年五月一日 東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷二百二十三番地 玉川電氣鉄道株式會社 専務取締役津田興二

鐵道大臣仙石貢殿

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(東京都公文書館所蔵)

玉川電気鉄道時代は一貫して「世田谷線」

 玉川電気鉄道は1936年10月に東京横浜電鉄の傘下に入りますが、その前後に発出された公文書でも三軒茶屋〜下高井戸間は「世田谷線」表記のまま変化は見られません。

玉第二八六號 工事方法書中一部變更御認可申請

今般別紙事由ニ依リ當社營業線中世田谷線起點三軒茶屋停留場附近ニ於ケル電車柱並ニ信號設備移設ノ要相生候(省略)

昭和十一年九月二十四日 東京市澁谷區大和田町一番地 玉川電氣鉄道株式會社 取締役社長平沼亮三

鐵道大臣前田米歲殿 內務大臣潮恵之輔殿

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和13〜14年)

玉丑第七〇〇號 線路竝工事方法一部變更認可申請

今般左記事由ニ據リ昭和三年九月二十九日附監第二九二七號ヲ以テ御認可相受申候世田谷線上町貨物停留場ヲ廢止(省略)

昭和十二年九月十日 東京市澁谷區大和田町壹番地 玉川電氣鉄道株式會社 取締役社長五島慶太

鐵道大臣中島知久平殿 內務大臣馬場鍈一殿

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和13〜14年)

東京横浜電鉄合併後も「世田谷線」の路線名は継承

 1938年4月に玉川電気鉄道は東京横浜電鉄と合併し、三軒茶屋〜下高井戸間を含む玉電の軌道線全線は東京横浜電鉄の路線となりましたが、合併直後に発出された公文書にも「世田谷線」の表記は継承されています。

東横寅第二八九三號 三軒茶屋附近一部線路並ニ工事方法變更認可申譜並ニ特別設計認可申請書

弊社世田谷線三軒茶屋世田谷間中三軒茶屋起點点付近ニ於ケル路線並ニ工事方法ヲ別紙事由ニ據リ一部變更致度候間(省略)

昭和十三年十月二十五日 東京市澁谷區大和田町壹番地 東京横濱電鐵株式會社 取締役社長五島慶太

鐵道大臣中島知久平殿 內務大臣末次信正殿

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和13〜14年)

キロ程表に表記された「東京横浜電鉄株式会社 玉川線」と「高井戸線」

 1939年12月に発出された停留場の改修に関する届出文書の別表に「高井戸線」の表記が登場しますが、本文には従前通り「世田谷線」と表記されています。同時期に発出された他の公文書には高井戸線の表記は見当たらず、出現するのはこの表中の1箇所のみであることも鑑みれば、あくまで社内用語の一つだったと考えられます。
 また、別表の副題には「東京横浜電鉄株式会社 玉川線」とありますが、玉川電気鉄道から継承した全路線を玉川線として総称している場面が、この頃から徐々に見られるようになります。1936年2月に発行された「日本都市大観」の現勢には「世田谷線(三軒茶屋ー下高井戸)」と記載されていますが、1940年2月発行の同書では「玉川線(澁谷ー溝の口、砧 三軒茶屋ー下高井戸)」と変化しており、同時期の他の書籍にも軌道全線を玉川線としている記載例が散見されます。公文書の表記とは矛盾しますが、1939年12月の省線との連帯運輸開始時の官報にも玉川線の路線名しか記載されておらず、連帯運輸を契機として旅客案内上で何らかの整理がなされたものと考えられます。なお、当時の鉄道省編纂の時刻表には「玉川電車線」として掲載されています。

東卯第一五四七號 停留場設備並ニ位置變更御届

昭和十四年十二月七日

東京市澁谷區大和田町壹番地 東京横濱電鐵株式會社 取締役社長五島慶太

鐵道大臣永田秀次郎殿 內務大臣小原直殿

弊社營業軌道中、玉川線玉電中里及用賀並ニ世田谷線西太子堂、玉電若林松陰神社前及世田谷ノ各停留場ヲ鐵道省線卜ノ連帶運輸ニ備ヘ且ツ別紙事由二依以設備並ニ位置變更仕リ候間此段及御屆候也

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和15〜17年)

實測換算中心粁程表(東卯第一五四七號 停留場設備並ニ位置變更御届 別表)

※図表をもとに作図

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和15〜17年)

三軒茶屋〜下高井戸間の路線名が「玉川線」表記に変化

 1941年12月に発出された踏切警報機の設置認可申請文書の本文に、従前の世田谷線区間に対して「玉川線」と表記されています。別紙には「玉川線(世田谷線)」の表記もあることから、この時点では正式に三軒茶屋〜下高井戸間を玉川線の一部とする整理がなされていたものと考えられます。

東横電已第一八八號 踏切警報機新設認可申請書

昭和十六年十二月五日

東京市澁谷區大和田町壹番地 東京横濱電鐵株式會社 取締役社長五島慶太 主任技術者小宮次郎

內務大臣東條英機殿 鐵道大臣寺島健殿

弊社儀今般別紙事由ニ依リ當社玉川線松陰神社前第二號踏切道ニ踏切警報機新設仕度候間御認可被下度此段及申請候也

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和15〜17年)

工事方法書(東横電已第一八八號 踏切警報機新設認可申請書 別紙)

一、施設場所

東京市世田谷區世田谷一丁目六十九番地
玉川線(世田谷線)三軒茶屋起點一粁八〇〇米(省略)

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和15〜17年)

東京急行電鉄の成立前後は「世田谷線」と「玉川線」表記が混在

 1942年5月に東京横浜電鉄は東京急行電鉄に商号変更されましたが、この前後の公文書では「玉川線」と「世田谷線」で表記ゆれが見られ、同一件名内に両方の表記が混在した文書も見受けられます。戦中の混乱期に差し掛かる中で、なかなか社内での統一が図られていなかったことが窺えます。1943年3月発行の「東京横浜電鉄沿革史」には、玉川線三軒茶屋〜下高井戸間の「舊路線名」として「世田谷線」が記載されており、東京急行電鉄には世田谷線の路線名は継承されなかったものと考えられます。

東横工午第二八號 踏切道改廢並停留場位置及設備變更御屆 

昭和十七年三月六日

東京市澁谷區大和田町壹番地 東京横濱電鐵株式會社 取締役社長五島慶太

鐵道大臣八田嘉明殿 內務大臣湯澤三千男殿

弊社營業軌道世田谷線六所神社前ー七軒町間中踏切道ノ新設、廢止並ニ六所神社前停留場下リ線乗降場位置及設備ヲ別紙事由ニ依リ變更仕リ度候間此段及御屆候也

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和15〜17年)

企工未第二三二號 玉川線玉電山下下高井戸間工事方法變更認可申請書

昭和十八年五月二十六日

東京市澁谷區大和田町壹番地 東京急行電鐵株式會社 取締役社長五島慶太

鐵道大臣八田嘉明殿 內務大臣安藤紀三郎殿

弊社軌道線玉川線玉電山下下高井戸間線路ヲ別紙理由ニ依リ一線ヲ撤去シ單線トスルタメ工事方法變更致度候間(省略)

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書 昭和18〜20年)

戦後も「玉川線」と「世田谷線」で表記ゆれが続く

 第二次世界大戦後の公文書には「玉川線」の表記が多くなりましたが、以下に示した七軒町停留場の廃止認可申請文書のように、依然として「世田谷線」表記が混在するケースも見受けられます。社内周知に時間を要していたものと考えられますが、玉川線本線との区別のためにあえて表記されていた可能性も否定できません。

運輸丑発第一八七号 玉川線七軒町停留場廃止認可申請書

昭和二十四年八月六日

東京都澁谷区大和田町壱番地 東京急行電鉄株式会社 取締役社長鈴木幸七

東京都知事安井誠一郎殿

弊社玉川線七軒町停留場を別紙理由により廃止致したきにつき特別の御詮議を以て御認可下さるよう本書により申請致します(省略)

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 運輸省文書 昭和22〜24年)

理由書(運輸丑発第一八七号 玉川線七軒町停留場廃止認可申請書 別紙)

弊社世田谷線七軒町停留場は附近に重要諸施設もなく且つ一般民家も極めて僅少なる上に六所神社前七軒町及下高井戸驛の驛間は夫々五〇〇米の短區間でありますので七軒町停留場を廢止し六所神社前停留場を約二六三米下高井戸驛寄に移設し輸送力の合理化を計るため。

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 運輸省文書 昭和22〜24年)

1950年代以降は「玉川線」の路線名が定着していく

 1950年以降の公文書には「世田谷線」の表記がほとんど見られなくなり、この頃から三軒茶屋〜下高井戸間も玉川線の一部であることが定着してきたものと考えられます。当時の書籍類にも「玉川線松陰神社前下車」といった記載が多く見られるようになり、逆に「世田谷線」の記載は姿を消していきました。
 一部の書籍や地図には「下高井戸線」との記載も見受けられますが、公文書を確認した限りで東京急行電鉄が発出した文書での表記例は見当たらず、行政機関が発出した文書でわずかに見られる程度であることから、正式な路線名ではなく、あくまで通称であったと考えられます。ただし、1980年に発行された「新玉川線建設史」では、三軒茶屋〜下高井戸間について「下高井戸線」と表現され、東急社員が執筆した論文等にも使用例があることから、東急社内でも玉川線本線との区別のために呼称されていたようです。

東急工發二五第五九號 玉川線西太子堂停留場外五箇所設備變更屆

昭和二十五年七月十七日

東京都澁谷區上通二丁目五五番地 東京急行電鐵株式會社 取締役社長鈴木幸七 主任技術者田中勇

運輸大臣山崎猛殿 建設大臣增田甲子七殿

弊社營業玉川線西太子堂若林松蔭神社前世田谷上町宮の坂停留場を別紙理由に依り設備變更致したいと存じます(省略)

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 運輸省文書 昭和25〜26年)

渋谷〜二子玉川園間の廃止で「世田谷線」の路線名が復活

 1969年5月、新玉川線と首都高速道路3号線の建設工事に伴い、玉川線のうち渋谷〜二子玉川園間は廃止、三軒茶屋〜下高井戸間は、路線名を「世田谷線」に改称のうえ運行が継続されることになりました。改称の経緯に関する記述は、公文書や「新玉川線建設史」には見当たりませんが、開通時からの歴史ある名称である「世田谷線」が路線名として復活することになりました。

東急鉄管発43㐧41号 玉川線(渋谷~二子玉川園間)営業廃止許可申請書

昭和43年12月23日

運輪大臣原田憲殿 建設大臣坪川信三殿

東京都渋谷区大和田町98番地 東京急行電鉄株式会社 取締役社長五島昇

 当社玉川線渋谷~二子玉川園間9.1キロ区間の営業を廃止いたしたく、関係者類を添え申請いたしますから、格別のご詮議をもつてご許可くだされたくお願い申し上げます。

(国立公文書館所蔵 運輸省文書 昭和44年)

玉川線(渋谷一二子玉川園)砧線(二子玉川園一砧本村)の営業廃止について

 日頃ご愛顧頂いておりました玉川線(渋谷〜二子玉川園間)及び砧線(二子玉川園~砧本村間)の運輸営業を5月10日で廃止することになりました。
 明治40年開業以来60余年もの間ご利用いただき誠に有難うございました。
 なお三軒茶屋~下高井戸間は世田谷線と改称して営業するほか皆様の輸送に万全を期すため、次のような計画をたてておりますので、ご了承願います。

※東京急行電鉄発行案内リーフレット(1969年)より抜粋