世田谷線沿線に暮らした文豪たち

 世田谷線の沿線は、その開通によって都心との距離が近づいたことで、宅地開発が進み、多くの人々が移り住みました。その中で多くの作家たちも世田谷線沿線に居を構え、たびたび作品の舞台となり、普段の暮らしの中にも数々のエピソードを残しています。こうした作品の描写やエピソードは当時の情景や文化をあらわす貴重な史料として、私たちに多くのことを教えてくれます。今や世田谷は東京都有数の住宅地として、都内最大の人口を擁するまでに成長しましたが、これまで多くの作家たちがこの世田谷の地で作品を紡いだことも、世田谷の知名度を全国に知らしめ、今日の発展に寄与した源泉の一つとなっているのかもしれません。
 このページでは、2026年2月21日に世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」関連イベントとして行われた講演会「文学の世界に走る世田谷線の百年史」の内容をもとに、沿線に在住した作家たちとその作品のエピソードから、世田谷線100年の情景を振り返ります。


三軒茶屋付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 世田谷線が開通した1925年当時、すでに郊外住宅地となっていた三軒茶屋付近には、林芙美子氏、壺井繁治・栄夫妻、平林たい子氏が近くに居住しており、それぞれ親しく交流していたようです。その頃の暮らしぶりを林芙美子氏は「放浪記」、壺井栄氏は「風」、平林たい子氏は「嘲る」に描いています。「嘲る」では、1円を握りしめて大橋から三宿まで玉電に乗る描写が残されています。
 日本女子高等学院を創立した人見東明氏は、1945年に太子堂の旧陸軍砲兵連隊の跡地への校舎移転とともに移り住んできました。現在の昭和女子大学には、自身の名が冠された人見記念講堂が建ち、区内有数の芸術文化の発信地となっています。
 赤堤で学生時代を過ごし、その後は三軒茶屋で長く暮らした坪内祐三氏は、自身の体験を「玉電松原物語」に書き残しています。1960年代の少年時代の赤堤の記憶から、大人になるに連れて行動範囲が世田谷線沿線へ、そして区外へと広がっていく様が時代背景とともに濃密に描かれており、当時の沿線の空気感を克明に記録した貴重な史料と言えます。未完となってしまったことは残念でなりません。


西太子堂付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 西太子堂付近は、世田谷線沿線の中では一番空襲の被害が激しかった地域でした。当時若林に在住していた海野十三氏は自らの戦中の体験を「海野十三敗戦日記」に日記形式で書き残しています。1945年7月、渋谷から若林まで玉電で帰宅の途につくところ、いつ空襲が来るかもわからないから行けるところまで行って、と駅の助役さんに促されながら、やってきた玉川方面行きに乗り込み、三軒茶屋で下高井戸方面に乗り換える合間で、太子堂方面に広がる空襲の跡を眺める描写が残されています。終戦直前の空襲の止み間にも玉電が走り続けていたことを示す貴重な史料と言えます。1945年5月の太子堂付近の空襲は、柴崎友香氏の「わたしがいなかった街で」にも描かれています。
 戦後、結婚を機に太子堂に越してきた佐藤愛子氏は、作品の中で太子堂の自邸や周辺の情景について度々触れており、2024年に映画化された「九十歳。何がめでたい」には、劇中に世田谷線の姿が映ります。


若林付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 向田邦子氏は向田家の長女として若林の家で生まれましたが、すぐに父の転勤先である宇都宮に引っ越しており、若林に在住したのは物心のつく前のわずかの時期だったようです。
 日本SFの父と呼ばれた海野十三氏も、前述のように若林に長く在住し、戦時中には自宅の庭に防空壕を作り、一家だけでなく地域住民も難を逃れたと言います。
 1973年に転居してきた半村良氏もまた、日本のSF小説を牽引した存在ですが、短編小説の「ふたり呑んべ」では、この頃の世田谷線をノスタルジーの象徴として表現しています。現在も世田谷線は運転士や案内係が運賃の収受を行いますが、この当時でも乗務員との直接的な触れ合いは珍しく、常連になると顔を覚えられて声をかけられるような、かつての下町的な雰囲気に心が染みる様を描いています。


松陰神社前付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 北原白秋氏は1928年、松陰神社前に近い現在の若林3丁目に越してきました。子の成城学園への通学の便を図るために転居を決めたとされ、小田急線に乗り換えが便利な世田谷線の沿線は最適だったと言えます。この頃、近所に在住していた縁で駒澤大学の依頼を受け、校歌を作詞しています。その後、より子の学校に近い砧へと転居したため、この地に居住したのは3年ほどでしたが、現在も世田谷通り沿いの旧居跡には、世田谷区による説明板が設置されています。


世田谷付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 世田谷駅のすぐ隣にある大吉寺は、吉良家の祈願所として建立された歴史ある寺院です。世田谷線の敷設特許が出願された1921年、寺内大吉氏はこの大吉寺に生まれ、1944年からは住職として生涯世田谷線の側に暮らしました。かつて世田谷区が制作し、テレビ東京で放映されていた「風は世田谷」には、自らが世田谷線沿線を巡り、かつての玉電・世田谷線の思い出や沿線風景を語りながら名所・旧跡を紹介する姿が収められています。


上町付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 上町からほど近い桜3丁目には、世田谷区の名誉区民でもあった井上靖氏が長く在住していました。ご家族によれば多忙を極めた氏は30年以上も暮らした自宅の住所を覚えられず、方向音痴でもあったので区内の公共交通機関を利用したことはなかったとされており、近くを走る世田谷線はその存在すら知られていなかったかもしれません。すでに当時の住居は取り壊されていますが、2012年には旧邸の書斎と応接間が旭川の井上靖記念館に移設のうえ一般公開されており、旧居跡には世田谷区による説明板が設置されています。


宮の坂付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 世田谷線の開通とともに事業が開始された荏原郡第一土地区画整理組合によって宅地化された宮の坂付近には、新興住宅地として開発されたばかりの1930年代に多くの作家たちが移り住みました。豪徳寺を囲むように住んでいた徳永直氏、中野重治氏、手塚英孝氏らは互いに親しく交流していたと言います。
 廣津和郎氏は第二次世界大戦の開戦前後から、新町に住む志賀直哉氏と親交を深めていました。「続 年月のあしおと」には、互いの家を行き来する描写が残されています。廣津邸の最寄りだった豪徳寺前から三軒茶屋まで玉電で10分弱、玉川方面行きに乗り換えて新町まで更に10分弱、電車で25分かけて通っていたところ、ある晩終電を逃して歩いて帰ってみたところ、電車と同じぐらいの時間で自宅に着いてしまったことに気づき、それからは二人とも徒歩で行き来するようになったことが、当時ののどかな世田谷の情景とともに描かれています。


山下付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 世田谷線の開通直後、山下から程近い松原に青山脳病院が移転してきました。創設者の斎藤紀一氏の孫である北杜夫氏は、祖父を主人公にした長編小説「楡家の人びと」で、当時は麦畑が広がっていたこの場所を選んだ祖父の先見性について触れています。
 山下で生まれ育った吉田篤弘氏は、20年以上にわたってシリーズ化されている「月舟町」のモデルが、自身が暮らした山下・松原の情景にあることを明かしています。「つむじ風食堂の夜」には、路面電車がすぐ裏手を通る銭湯から、夜ふけの電車を眺める描写がありますが、モデルになった山下の街にも、世田谷線の線路際で銭湯「鶴の湯」が今も盛業中で、小説の情景を追体験することができます。


松原付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 松原付近は世田谷線開通の頃は烏山川からの豊富な水脈を利用した水田が広がっていました。沿線の中でも一番最後まで田園風景が残り、宅地化が進んだのは戦後になってからのことでした。人口が急増して駅前に商店街が形成しはじめた1950年代半ばに、相次いで多くの作家たちがこの地に移り住みました。そんな時期に商店街で創業したお店の一つに、スーパーマーケットオオゼキがあります。
 遠藤周作氏が松原に住んだのはわずかな時期でしたが、商店街の雰囲気を気に入って転居後も度々訪れていたようで、「海と毒薬」では西松原という架空の住宅地として、駅前通りに広がる商店街の情景を描いています。
 作家と担当編集者の関係から、北杜夫氏と宮脇俊三氏が長らく松原に隣同士で暮らしていたことはよく知られていますが、1961年に越してきた北氏の第一声は「ここは田舎ですなぁ。蚊がいますねぇ」だったと言います。北氏が「マンボウ・マブゼ共和国」として突然日本からの独立を宣言したのもこの自邸でした。


下高井戸付近に在住した主な作家

世田谷文学館開館30周年記念コレクション展「世田谷線・100年間のものがたり」の展示内容を参考に作成

 1924年、竹久夢二氏が下高井戸駅からほど近い丘の上に、自身の設計による自邸「少年山荘」を建てました。翌年5月にすぐ側を世田谷線の線路が通り、近くには七軒町停留場が設置されました。この世田谷線の開通日の様子が、自伝小説「出帆」と「夢二日記」に描かれています。特に「出帆」では、開通日に少年山荘から「盛装した電車」を見送る情景とともに、そこから眺めた単行電車の姿が自作の挿絵で描かれており、世田谷線開通時の写真や記録がほとんどない中で、非常に重要な史料の一つと言えます。
 作家になる前に宇治川電気(現:山陽電気鉄道)で車掌経験のあった椎名麟三氏は、玉電の線路近くに居を構え、自身や家族の写真には玉電の姿が多く映り込んでいます。自身は特に鉄道愛好家だったというわけではなかったようですが、かつて勤務した鉄道への思い入れや郷愁がこの地を選んだのかもしれません。
 大藪春彦氏は「蘇える金狼」の舞台の一つに、転居してきたばかりの赤堤を選んでいます。主人公が作戦遂行のために赤堤でアパート「赤松荘」と「松風荘」を借りていたとの設定で、豪徳寺の商店街や玉電山下の踏切、経堂に通じるバス通りなど、1960年代前半頃の付近の情景が細かく描写されています。