地域住民の尽力で実現できた世田谷線

 1921年1月8日、玉川電気鉄道に届けられた一通の請願書が、現在の世田谷線開通のきっかけとなりました。1907年に渋谷〜玉川間、1913年に笹塚〜調布間に電車が走り始めましたが、世田谷の中央部への鉄道の敷設計画はなかなか実現せず、次第に開発からも取り残されていくようになりました。これに危機感を抱いた世田谷の名士らが地域の地主160名を集めて提出したのが、この請願書でした。軌道用地の無償提供など、強力なバックアップが約束されたことで玉電側を動かし、1925年に三軒茶屋〜下高井戸間の開通が実現しました。
 このページでは、2025年4月29日に行われた「世田谷線開通100周年記念トークイベント『世田谷線100年の変遷とこれから』」での講演「世田谷線開通100年・601号生誕100年」の中から、世田谷線開通の経緯について、その実現に尽力した地域住民との関わりとともに概説します。

幻に終わった明治期の世田谷線計画

1902年に取得した玉川電気鉄道の特許線
※「玉川電気鉄道線路図(1907年経済時報社「経済時報」第57号掲載)」をもとに作図

 代官屋敷が置かれた上町付近は長年にわたって世田谷の中心地として栄えてきました。世田谷への最初期の鉄道計画である武相中央鉄道がこの地を停車場の予定地に選んだことで、これに接続するため、城南鉄道や玉川砂利電気鉄道が相次いで世田谷を起点にした鉄道計画を出願しました。ところが、1907年に世田谷初の鉄道路線として開通したのは、世田谷の中心地を通らない渋谷〜玉川間でした。
 1902年2月、当時の玉川砂利電気鉄道には、渋谷〜玉川間とともに三軒茶屋〜世田谷間も特許されていましたが、敷設計画が具体化してくると建設費の増大が判明するなど資金繰りが苦しくなり、次第に三軒茶屋〜世田谷間の敷設工事は後回しになっていったようです。その頃、新町住宅のデベロッパーであった東京信託の出資を受けることになったことで、新町を通る渋谷〜玉川間の開通が最優先とされたことも大きく作用したものと考えられます。
 玉川電気鉄道には、玉川砂利電気鉄道としての発起当初から世田谷の住民が数多く経営参加しており、世田谷の中心地への敷設計画が見通せない状況に一部の株主は危機感を抱きました。そこで1906年11月、世田谷在住の株主らが中心となって玉電側と誓約書が取り交わされました。この誓約書では、すでに特許を取得済みの三軒茶屋〜世田谷間の早期開通とともに、かつて計画された世田谷〜用賀間、特許を返納していた世田谷〜登戸間の再出願を要求するもので、これが実現しなければ「將来土地之優劣及利害ニ偉大之影響及ス」と危機感を顕にしています。玉電側ではこれを受けて翌年12月に世田谷〜和泉間を再出願し、1908年6月に特許を取得しましたが、その後も敷設工事が進められることはなく、1910年11月に三軒茶屋〜世田谷間とともに計画が中止されました。狛江村内には玉川砂利電気鉄道時代からの株主が多く在住しており、特許取得直後の1908年7月には狛江村役場で敷設運動の集会が開かれた記録はあるものの、当時の世田谷の中央部はその殆どを農村地帯が占めており、開通直後で事業基盤が安定していなかった玉電にとって、短期的な収益が見込めない事業にはなかなか手を出せなかったのではないかと考えられます。計画が中止された1910年は、夏に沿線一帯が大水害に見舞われ、全力でその復旧が進められていた時期と重なります。

誓約書

惟フニ今ヤ世運額ル進歩ノ趨勢ニ伴ハザルナシ海陸ヲ問ハズ交通機關設備之有無ニ随ヒ將来土地之優劣及利害ニ偉大之影響及ス起因是レ敢テ論ヲ待タザルナリ由テ以際ヲ期シ第一着(三軒茶屋世田谷上町間)特許残存線路敷設速成第二着(世田谷用賀登戸間)復活線路敷設準備等同時要求ヲ需メシ所以ニ依リ茲ニ沿道地區ヲ畵シ左記ノ事項ヲ附シ以テ連署捺印確約候成

第一欸

第一項 擔任者ヲ定メ區畵分擔及全區氣脈ヲ通ジ聯带責任ヲ以テ協同一致盡力スル事
第二項 沿道ニ關スル會社事業ニ對シ努テ會社ニ便宜ヲ興フル事
第三項 擔任者個人的私欲ニ扢扼セズ懇切會社ノ利便ヲ圖ル事
第四頃 萬々一治道ニ放障ヲ生シタル時ハ擔任者ヲシテ會社ニ應援部分整理ノ任ヲ帯フル事
第五項 緊急問題醸シタル時ハ相互通惵ニ應シ至急之地ニ参集凝議ヲ遂ル事
第六項 目的ノ素志ヲ貫徹終局之美ヲ視ルニ至ル迠全區其都度交渉ノ完全ヲ㫖トシ互ニ機敏任務ヲ果ス事

右事項倶ニ確守候事

明治三九年十一月

玉川電氣鐵道布設擔任

第一區 (個人1名)
第二區 (個人2名)
第三區 (個人3名)
第四區 (大場信愛氏を含む個人6名)
第五區 (個人1名)

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(世田谷区立郷土資料館所蔵 大場氏文書記録)

地域住民の主導で再始動した世田谷線計画

 玉川電気鉄道による三軒茶屋〜世田谷〜和泉間の敷設計画は終焉を迎え、城南鉄道が取得していた二ノ橋〜世田谷間の軽便鉄道免許も、武蔵電気鉄道への譲渡を経て、1915年5月に区間短縮されたことで、世田谷の中央部を通る敷設計画は全て白紙に戻ってしまいました(城南鉄道の詳細は「城南鉄道計画〜世田谷を走る蒸気機関車の幻〜」に掲載しています)。
 1918年5月発行の「経済雑誌ダイヤモンド」には、玉川電気鉄道が三軒茶屋から分岐して京王線に連絡する新線敷設を調査中であるとの記載があり、その後の世田谷線の原形となる構想を持っていたようですが、この頃は広尾線の敷設に加えて1,372mm軌間への改軌という大プロジェクトが控えており、新たな投資は難しい状況にありました。
 明治期から鉄道敷設に動いていた世田谷の名士らは当然こうした状況に憂慮していたと考えられますが、特に強い危機感を抱いていた一人が大場信續氏でした。大場家は代々、井伊家の領地だった彦根藩世田谷領の代官を務め、信續氏の父である信愛氏は最後の世田谷代官、世田ヶ谷村の初代村長を歴任するとともに、武相中央鉄道の計画時には地域の代表として鉄道側と交渉にあたり、玉川砂利電気鉄道の発起人にも名を連ねました。前述の誓約書も玉川電気鉄道の発起人だった信愛氏らが取り交わしたものでした。息子の信續氏は農学や耕地整理について学んだ後、農商務省や宮内省に奉職の傍ら、荏原郡第一土地区画整理組合や世田谷信用販売購買組合など、世田谷地域で数多くの社会事業を立ち上げていました。中でも荏原郡第一土地区画整理組合は、世田ヶ谷村内の大規模な土地整理事業で、農村地帯から郊外住宅地への転換を目指したものでしたが、この実現のために必須だったのが都心と世田谷を結ぶ交通手段でした。信續氏は父の信愛氏と同じく、鉄道によって交通不便が解消されなければ世田谷の発展はないと確信していました。
 1920年12月には、信續氏や世田ヶ谷村長ら5名を実行委員として、三軒茶屋から陸軍自動車隊(現在の東京農業大学付近)までの軌道敷設を玉川電気鉄道へ交渉するため、沿線の地主に軌道敷地の寄附を呼びかけることになりました。呼びかけに応じた地主と取り交わされた承諾書によれば、予定線から約650m以内の土地所有者には、1/100以内の土地または金銭に替えて寄附することが要請され、大字世田谷内では予定線から離れた地区の土地所有者に対しても寄附を呼びかけていたことがわかります。
 寄附に承諾した地主は最終的には実行委員の5名を含めて160名におよびました。

承諾書

今般玉川電気鉄道三軒茶屋停留場附近ヨリ陸軍自動車隊方面ニ到ル電車軌道架設方同会社ニ交涉スル𠃍ニ同意シ左記協定事項ヲ承諾候也

協定事項

一、玉川電気鉄道三軒茶屋停留場附近ヨリ陸軍自動車隊方面ニ至ル電車軌道敷地ノ中心ヨリ凡ソ五六丁ノ距離内ニ在ル土地ノ所有者ハ其面積ノ百分ノ一以内ノ土地ノ寄付ヲナス事

二、右寄付ヲ金銭ニ換ヘ又ハ軌道敷地ノ補償ヲナス場合ノ土地價格ハ左ノ標準ニ據ル
 一、大字太子堂 壱坪 金弐拾円乃至弐拾五円
 一、大字若林 壱坪 金十五円乃至十八円
 一、大字世田谷 壱坪 金十円乃至十二円

三、大字世田谷ノ内久保、竹ノ上、松原宿、宮之坂、寉免、横根、宇山、大字経堂在家等ノ土地所有者ハ前記㐧一号以上ノ巨離ナキト雖其三分ノ一相当ノ寄附ヲナス𠃍

四、本協定ノ実行並ニ会社交渉方等ヲ左記 五名ノ実行委員ニ依頼スル事
 (大場信續氏、世田ヶ谷村長の相原永吉氏を含む個人5名)

本協定ノ効力ハ本日ヨリ起算シ満弐ケ年トス

以上

大正九年十二月二日

住所 氏名

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(世田谷区立郷土資料館所蔵 大場氏文書記録)

地主160名による玉川電気鉄道への請願書

 1921年1月、周辺地域の地主160名の名簿や計画図を携えて、玉川電気鉄道に「電車線路延長御願」が提出されました。この請願書では、地域発展のために鉄道は必要不可欠であるとの想いが切々と記され、地域住民の熱意を伝えながら、その決意として具体的な協力事項についても明確にされ、軌道用地の無償提供に加えて、敷設工事の後方支援までも約束されるなど、玉電側にとって破格の条件が提示されています。
 通常、鉄道敷設にあたって用地の取得は最重要課題ですが、沿線住民や利害関係者との調整にも多くの困難が待ち受けています。この両方で地域住民の協力が得られることはこの上ない大きなメリットであり、玉電側との交渉を有利に進めたものと推測できます。

電車線路延長御願

貴社三軒茶屋停留場ヨリ世田谷字横根屯在陸軍自動車隊方面ニ到ル電車軌道延長敷設ノ義ハ地元多數民ノ熱望スル處ニ有之今般協議ノ結果軌道敷地ノ大部分ヲ寄附シ得ルノ見込相立候ニ付御調査ノ上急速右目的ノ達セラルゝ様御配慮相成度沿道地主百六拾名ニ代リ此段御願申上候

由来當地方ハ一般ニ土地髙燥ニシテ地勢起伏定マラス丘アリ谷アリ水利ニ便ニ古木欝蒼、空氣清爽到ル處冨岳ノ眺望ヲ恣ニシ極メテ雅趣ニ冨ミ郊外住宅地トシテ實ニ必須ノ要件皆ナ具備セリト云フモ過言ニアラサルナリ

又當沿道ノ附近ハ往昔源義家東征ノ途次滞在數ヶ月ニ亘リテ軍旅ヲ慰メシ勝地タルノ故ヲ以テ城築キ足利時代ヨリ吉良家累代ノ居城タリシ城山アリ、或ハ大老井伊掃部頭直弼ノ舊跡タル豪徳寺アリ其他著名ナル松陰神社、志士頼三樹三郎公爵桂太郎ノ榮域等幾多ノ名勝舊跡ノ存スルアリテ此處ニ杖ヲ曳クモノ四時殆ント絶ユルコトキ状態ナリ

加之近來大東京ノ人口頓ニ多キヲ加ヘ住宅難ノ聲喧シキモノアリテ常ニ之レカ適地ヲ探求セルモノゝ如シ今此地ニ電路ノ開通ヲ見ンカ僅々二、三十分間ニシテ市内ニ達スルヲ得ルヲ以テ忽チニシテ衛生上将又子弟教養上無ニノ住宅地トナルヤ明カナリ況ンヤ當地方ノ地主相謀リ理想的住宅地ノ経営ヲナサントスルノ議熟シツゝアルニ於テオヤ斯クノ如シ将来多望ニシテ且現在ニ於テモ確タル計數ヲ示スコト䏻ハスト雖モ相當ノ通行者アリ之ニ一般ノ土地ニシテ住宅地トナリ常住者増殖シ来遊者ノ數モ亦相加ハルニ依リ當地方ノ繁榮ヲ來スノミナラス経濟上貴社ノ収入ニ於テモ幹線ニ劣ラサルノ収益ヲ舉ケラルゝコト難キニアラサル義ト被思料候尚又地元多數民ノ懇望スル處ニ有之候ニ付前述ノ通リ地主ニ於テ軌道敷地ノ大部分ハ之ヲ寄附スルニ止マラス事實工事施行セラルゝニ於テハ其他ノ物資供給ノ上ニモ多大ノ御便宜ヲ謀リ可申候間何卒急速延長敷設ノ義御髙慮ヲ加ヘラレ度此段奉懇願候也

追テ御參考ノ為本文協議事項、沿道同意地主名薄及希望線路沿若地主所有地記入圖面添付致候

大正十年一月八日

沿道地主百六拾名總代

相原永吉
(個人名)
大場信續

玉川電氣鐵道株式會社 專務取締後 津田興二殿

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(世田谷区立郷土資料館所蔵 大場氏文書記録)

請願を契機に世田谷線の特許出願を決断

1921年8月時点の世田ヶ谷村内の計画線
※大場家文書記録「世田谷線用地調」(1921年8月)の記載をもとに作図、地図は地理院タイル(電子国土基本図)をもとに作成

 請願が行われてからわずか半年、遂に玉川電気鉄道は世田谷線の敷設を決断し、1921年6月に三軒茶屋〜下高井戸間の軌道敷設特許を出願しました。請願では三軒茶屋から陸軍自動車隊方面への路線が望まれていましたが、実際に出願されたのは上町から北に急カーブして下高井戸を目指すものでした。「東京急行電鉄50年史」では、この目的について「世田谷の奥地一帯の開発」とし、下高井戸が終点とされた理由に「同社と京王電気軌道が密接な関係にあったことと、京王電気軌道が千歳村(下高井戸周辺)一帯の土地開発に乗出していたこと」をあげています。
 出願書類によれば、現在の宮の坂から山下付近を「郊外住宅地トシテ実ニ必須ノ要件ヲ具備セル地域」と評しています。また、出願直前の1920年頃には、改軌による1,372mm軌間への統一を機に王子電気軌道を加えた3社で合併する構想があったとされており、いずれも「東京急行電鉄50年史」の記載と合致します。ただし、実際の千歳村は現在の八幡山〜千歳烏山駅付近に位置し、京王電気軌道が千歳土地区画整理組合を設立して本格的な土地開発に参入したのは1938年以降とされており、若干の矛盾も残ります。
 こうした状況から、用地買収にかかる費用を圧縮するため、用地の寄附が約束されていた区間の中で一番の要衝と言える上町までは請願通りとし、上町から最短距離にある京王線の駅として下高井戸を目指したものと推測できます。あるいは、下高井戸のアプローチ部において、直前で急カーブして調布方を向いて京王線と並行しているのは、将来の土地開発に備えて千歳村方面に直通する余地を残していたのかもしれません(ただし、当時の玉電は溝ノ口と未成の狛江においても、直前で急カーブして既存線と並行する線形で設計されています)。なお、1924年5月に王子電気軌道も目白(後に江古田)〜下高井戸間の軌道敷設特許を出願しており、その理由も玉電と同様に資本関係のある京王電気軌道との連絡をあげていることから、下高井戸を3社のジャンクションとする構想があったものとみられます。
 出願書類を読み進めると、玉電の他の出願文書にはあまり見られない沿線名所案内のような叙情的な一文が加えられています。先の請願書にも似通った部分があることから、出願区間に相違はあるものの、相当部分において請願書を参考にしていたことが垣間見えます。別添の起業目論見書には、沿線地主160名から用地の寄附が確約されていることも明記されています。
 出願書類に添付された計画線は、若林付近を直線的に通過し、山下から下高井戸にかけて現在よりも西側を通るなど、現在の世田谷線の経路とは若干異なっています。請願を主導した大場信續氏が各地主の把握に使用していた調書も概ねこの計画線のルートが反映されており、上町の西側には引込線と車庫の設置も計画されていたようです。請願時の図面は残されていませんが、地主から用地の寄附の確約を受けたうえでの出願であることから、三軒茶屋〜上町間は請願ルートをそのまま出願した可能性が高く、この引込線は陸軍自動車隊までの計画線の名残であると推測できます。この引込線部分は後述する勝光院西線の計画線にも流用されています。

玉第三三號 電気軌道敷設特許線延長願

今般當會社既設特許電気軌道ノ延長線トシテ東京府荏原郡駒澤村大字上馬引澤字新寄百六拾壱番地先ニ於既設軌道ヨリ分岐シ府縣道芝溝線(舊黒駒道)上ヲ仝郡世田谷村大字太子堂字西山四百参拾九番地先ニ至リ夫ヨリ仝路線右裏ニ㞮テ之ト殆ムト平行シテ途中目青不動、松蔭神社、志士頼三樹三郎公爵桂太郎ノ榮域襤褸市ニ名髙キ世田谷ノ宿等ヲ左右ニ見テ大字世田谷ニテ右折北進シ源義家東征ノ途次永ク滯在シ其後兹ニ城塞ヲ築キ足利時代ヨリ吉良家累代ノ居城タリシ城山並ニ大老井伊掃部頭ノ舊跡タル豪徳寺ヲ右ニ望ミ陸軍自働車隊ヲ左ニ眺メ郊外住宅地トシテ実ニ必須ノ要件ヲ具備セル地域ヲ過キテ仝郡松澤村大字松原字甲七軒町八百五十参番地先ニ至リ京王電気軌道線路下高井戸電車停留場ニ於テ仝線路ニ連絡スル亘長参哩拾六鎖間

右電気軌道ヲ敷設シ運輸業ヲ営ミ一般交通ノ利便ヲ増進仕リ度候間特別ノ御詮議ヲ以而御特許被成下候開係書類並ニ圖面相添ヘ此段奏願候也

大正十年六月二十四日

東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大和田下弍百弍十参番地
玉川電気鐵道株式會社
専務取締役 津田興二

内務大臣 床次竹次郎 殿
鐵道大臣 元田肇 殿

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(国立公文書館所蔵 鉄道省文書)

特許取得後、難航した工事施工認可申請

三軒茶屋〜下高井戸間の特許状(再現)
※東京都公文書館所蔵資料をもとに作成

 出願から1年、1922年7月に出願どおり三軒茶屋〜下高井戸間の特許状が交付されました。別添の命令書では1923年1月までの半年間に「線路實測圖、工事方法書、圖面及工費豫算書」を提出して東京府知事の認可を得ることが命じられ、ここから急ピッチで敷設予定地の測量、軌道や各設備の設計、工事費の積算などが進められることになります。
 ここで課題となったのが、上町〜下高井戸間でした。先の請願では三軒茶屋〜上町間の用地の無償提供は取り付けられていたものの、玉電側で独自に計画した上町以北については、自社で用地買収や交渉を行う必要がありました。このため、三軒茶屋〜上町間を第一工区、上町〜下高井戸間を第二工区にわけて敷設工事が進められることになりました。なお、上町停留場は当初世田谷停留場として申請されており、この時点では上町の停留場名は存在しませんでした。
 ところが、1923年1月21日の期限までに提出できたのは第一工区の工事施工認可申請だけでした。第一工区は期限当日にギリギリで提出されましたが、第二工区の提出は間に合わず「一時手廽兼候ニ付」として期限の延長を願い出ています。当時の公文書によれば、東京市が期限延長の願書を受け付けたのは期限経過後の1月29日で、「㐧五条ニヨリ失効」との赤書きが残されていますが、結果的には1924年1月20日まで1年間の延長が認められました。まさに首の皮一枚繋がったような状態をみるに、第二工区の調整にかなりの困難が生じていたようです。

難航する第二工区の調整と「玉川電鉄世田谷支線期成同盟会」活動

勝光院西線計画線
※大場家文書記録「勝光院西線字図入」(1922年頃)をもとに作図、地図は地理院タイル(電子国土基本図)をもとに作成

 世田谷線の工事施工認可申請期限を3ヶ月後に控えた1922年10月、地域住民の間で新たな動きがありました。先の請願を主導した大場信續氏と世田ヶ谷村長から、地域住民に対して「玉川電鉄世田谷支線期成同盟会」の会合が召集されました。召集状では、世田谷線の実測が進み「勝光院西線」の測定が完了したとし、再び関係地主に対する寄附が呼びかけられています。この勝光院西線は、信續氏の書類綴に測量図と地主調書が残されており、上町から現在の世田谷線の西側を通るルートだったことはわかっていますが、その他にはこの召集状と宇佐神社(現在の世田谷八幡宮)で行われた会合の参加者名簿がわずかに残るのみで、計画の経緯や意図は不明です。
 玉電側の文書類にも勝光院西線に関する記載は見当たらず、玉電側がどの程度関与していた計画なのかは不明ですが、信續氏らが勝光院西線の用地確保に動いていた時期は、第二工区の調整に難航していた時期と重なります。
 こうした状況から考えると、世田谷線のいち早い全線開通を願う信續氏ら地域住民側が、調整に難航する第二工区の代案として、地の利を活かして地主たちの賛同を得やすいルートを独自に計画し、勝光院西線として玉電側に提案したものとの推測が成り立ちます。測量図は世田ヶ谷村と松澤村の村境部分まで残されていますが、計画線は松澤村にはみ出す形で描かれています。そのまま北にまっすぐ伸ばすと松原付近で下高井戸へ向かう出願ルートと重なることも、第二工区の代案との推測を補強する材料の一つと言えます。

東京都公文書館所蔵「各電車停留場設備図(1923年7月25日付申請書)」をもとに作図

 また、第一工区の工事施工認可申請では、世田谷停留場(施工途中で上町停留場に改称)が西側を向いた設計とされており、勝光院西線の計画線と一致しています。ただし、1923年11月発行の「工政」によれば、玉電側が上町から西に延長し、陸軍自動車隊の北側を通り、宇山から南行して宇奈根で砧線と接続する循環線を形成する構想を持っているとの記載があり、この計画に基づく設計との見方もできます。
 「世田谷近・現代史」では、勝光院西線を「路線敷設の着工見込みがたった段階において、地元側はさらに支線敷設を実現すべく」展開されたものと記されていますが、世田谷線が地域の命運を握ると考えていた信續氏らが、第二工区の着工見込みが立っていない状況で世田谷線に近接した新たな支線を請願するとは考えにくく、一刻も早く用地の確保を完了させ、第二工区の着工への道筋をつけることが最優先の課題であったと考えられます。早期実現の意思は「玉川電鉄世田谷支線期成同盟会」の名称からも強く伝わってきます。
 信續氏の書類綴には、勝光院西線の会合が持たれた直後の1923年11月11日に玉電の技師長から得たとする三軒茶屋〜豪徳寺前間の軌道敷地調書の写し(実際には開通時の宮ノ坂停留場付近まで記載)が残されています。この調書には勝光院西線のルートは反映されておらず、玉電側はあくまで出願ルートで計画を進めていたものと考えられます。ただ、記載されている上町以北の地番はわずか6区画で、この時点では玉電側による第二工区の調整はほとんど進んでいなかったことが窺えます。

「勝光院西線関係地主及有志会合」の招集状(原文は無題)

拝啓益々御清福奉賀候陳者豫而村内者各位より御依托を蒙り着々交渉相進み居り候玉川電車世田谷支線実測の義も着々進行致し居り既に勝光院西線に付ても皆様既に御存じの如く線路敷地の中心線を測定済に相成り候へば愈〃是より関係地主各位并に関係部落有志各位之熱心ふる御賛助を得て成可く多くの敷地并に金円の御寄附又は御便宜を相預ひ部落の中心を壱定の上速かに会社側へ通知致し取急ぎ巾敷并確定の実測に取掛らせ度候度来る十一月四日御多忙中恐入り候へ共宇佐神社社務所に於て篤と相協儀申し上げ度候へば午后正壱時迄に仝所へ御参集相願度此段御案内申し上げ候

追而恐入り候へ共成すく御近所の有志各位を御誘ひ合され一人も多く御出席の程希望致し候
尚敷地に當る地主各位へは其節割宛拝書之概等書差上げ候上御説明を申し上ぐすく候 以上

大正拾壱年拾月廿一日

世田谷村長 相原永吉
地主有志総代 大場信續

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(世田谷区立郷土資料館所蔵 大場氏文書記録)

地域の協力を得てようやく着工できた世田谷線の敷設工事

世田谷線敷設工事中の1924年12月に建柱された木製架線柱(山下3号柱)/2008年6月6日 山下〜松原間

 調整に難航していた第二工区は、1923年度上期(1923年5月末)の営業報告書では「目下實測並ニ設計中」と説明されており、ようやく1923年7月に現在のルートで工事施工認可申請が提出されました。同年11月の個人調書に記載された上町以北の地番は37区画まで増えていますが、まだ歯抜けの部分もあり、この時点では用地交渉の最中にあったようです。
 1924年3月には第一工区、同年7月には第二工区で着工にこぎつけることができましたが、世田ヶ谷町内の第二工区で各区画の分筆登記が行われたのは同年に入ってからで、1924年度上期(1924年5月末)の営業報告書によれば、未だ松澤村内の用地買収は協議中とされており、着工の直前まで用地交渉を進めていたことが分かります。
 信續氏ら地域の有志は「玉川電鉄世田谷支線期成同盟会」による勝光院西線活動以外にも、世田谷線敷設に関する地域の調整役を一手に引き受け、玉電側と地域を繋げるコーディネーターの役割を担っていたようです。特に三軒茶屋〜上町間の用地確保では、当初の承諾書に反して寄附を渋りだした住民からは私費で用地を買い取ったり、先祖代々の所有地と交換するなどまさに身銭を切って、請願時の約束を果たしました。第二工区でも上町〜山下間の用地買収を仲介した形跡が残されており、世田谷線の実現に向けてあらゆる支援を続けていたことが窺えます。

悲願の世田谷線開通

 ようやく1925年1月に三軒茶屋〜世田谷間、同年5月に世田谷〜下高井戸間が開通の日を迎えました。地域住民にとっては最初の請願から4年、さらに遡れば明治期の玉川砂利電気鉄道による特許取得から23年越しの悲願が成し遂げられた瞬間となりました。開通時の写真は残されていませんが、七軒町停留場付近に在住していた竹久夢二氏は自伝小説「出帆」の中で、「盛装した電車が晴がましくゆつくりと走ってきた」と開通日の様子を伝えています。
 5月15日には世田谷線の開通式典が催され、沿線有志総代として大場信續氏が述べた祝詞が残されています。そこでは「明治年間ヨリ地方的大問題」だった世田谷線の計画が「遂ニ多年ノ宿望ヲ達シ」実現したことに感謝をしつつ、農村地帯から脱却して都市として発展していくためには、治安維持や公衆衛生などの課題があるとし、その解決のためには地域住民の不断の努力が必要であるとの新たな決意が示されていました。
 この後、世田谷線と並行して信續氏主導で計画されていた沿線の土地整理事業が本格始動し、関東大震災以降の郊外移住のタイミングとも重なったことから、開通からわずか5年で沿線人口は約2倍にまで急増しました。1932年10月に世田谷区が発足し、東京市の仲間入りを果たしてからの更なる発展ぶりは言うまでもありません。
 地域の発展を見据えて鉄道を誘致して、鉄道の開通に合わせて地域住民が主導して土地を整理してニュータウンを造成する、この50年ぐらいで確立されてきた地域協働のまちづくりが、100年前の世田谷では既に実行されていました。
 信續氏は祝詞の中で「我等沿道住民ノ雙肩ニ在リ」と書き残しています。今後も先人たちから受け継いだ先駆的なDNAを活かし、沿線地域が一丸となって世田谷線を軸にした持続可能な地域づくりが進められていくことを願っています。

祝詞

惟時大正十四年五月十五目玉川電車世田谷線開通ノ式典ヲ舉ケラレ之レニ列スルノ光榮ヲ得タル至上ノ欣幸トスル所ナリ

御本線ノ計劃タルヤ遠リ明治年間ヨリ地方的大問題トシテ論議考究セラレタリト虽其具体化シタルハ實ニ去ル大正十年一月八日沿道地主百六十名連署ヲ以テ會社當局ニ建築シタルヲ起因ス爾来年ヲ関スル五星霜其間幾多ノ難関曲折ナキトアラスト虽會社當局ノ誠意アル劃策ト沿道民不断ノ熱誠相待ヲ遂ニ多年ノ宿望ヲ達シ以テ今日ノ盛典ヲ舉クルニ到レリ

御本線ハ當地方交通ノ幹脉ニシテ之レカ開通ハ實ニ都市発展ノ先驅タリ之レニ進隋シテ其成果ヲ完カラシムルハ懸リテ我等沿道住民ノ雙肩ニ在リ今ヤ時勢ノ進運ハ當地方純農村ノ舊態ヲ脱セシメ郊外都市タルヲ強要スルニ至レリ若シ此ノ趨勢ニ對シ進ンテ策應スルナカラシカ本線ノ開通ハ却ツテ當地方ノ保安、衛生、交通其他ノ秩序ヲ乱スノ與タムナキヲ保セス殷鑑遠カラス近々各都市郊外ノ近況ハ歴々トシテ其活事例ヲ示セリ

我々沿道住民ハ宜シク前轍ニ鑑ミ交通網ノ配置土地ノ區劃上下水道ノ施設ヲ合理的ナラシメ以テ本線開設ノ目的ヲ達セシムヘキナリ

是レ會社ノ誠意二對スル沿道民ノ至當ナル報謝ナルト共ニ國家社會ニ對シ當然盡スヘキノ義務ナリト信ス而メ是等諸施設ノ計劃實行ニ関シテハ多事難関更ニ大ナルモノアラン幸ニ従来本線ニ致サレタル各位ノ好意ト熱誠トヲ割愛セラレ該事業ノ遂行ヲ迅速且ツ圓満ナラシメ以テ本線開通ノ使命ヲ達成セシムルヲ得ハ誠ニ本懐トスル所ナリ聊カ蕪辞ヲ呈シ本日ノ祝詞トナス

大正十四年五月一五日

世田谷線沿道有志總代
大場信續

※原文は縦書き、また旧字体の一部を新字体で表記しています。

(世田谷区立郷土資料館所蔵 大場氏文書記録)