これによりデト3030形は形式消滅し、砂利輸送を目的に開通した玉川・砧線から電動貨車を含む全ての貨車の配置がなくなった。
玉電歴史年表 明治29(1896)年〜昭和44(1969)年5月11日
玉電の歴史の始まりは諸説はありますが、当サイトでは明治29(1896)年7月15日に玉川電気鉄道が渋谷〜溝口間の軌道敷設を出願した日を起点としました。紆余曲折を経て1907年に開通を迎え、玉川電気鉄道から東京横浜電鉄、東京急行電鉄による運営に変わり、新玉川線と首都高速道路3号線の建設に伴って廃止された昭和44(1969)年5月11日までの出来事を年表形式でまとめました。
なお本年表では渋谷・玉川は停車場扱いのため「駅」、その他は「停留場」と表現しています(世田谷線移行後は現在の駅名標に合わせて停車場、停留場扱いに関わらず「駅」と表現しています)。
昭和44(1969)年5月11日以降の世田谷線の出来事は右のボタンからご覧いただけます。
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デト3031号が廃車
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首都圏整備委員会で新玉川線蛇崩川ルートを決定
新玉川線の三軒茶屋〜桜新町間は国道246号線から離れた蛇崩川沿いに高架線で建設する蛇崩川ルートが一旦決定された。また大橋〜三軒茶屋間の建設工事は首都高速道路3号線との同時施行とされた。この時点では、玉川線は廃止せず工事支障区間は道路の左右に線路を移設する計画だった。
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建設省、首都高速道路公団と「首都高速道路3号線(2期)と新玉川線及び現玉川線との工事調整について」協定を締結
東急では渋谷〜用賀間を国道246号線直下に建設することを要望していたが首都高速道路公団の方針は覆らず、1967年12月24日に同案を取下げていた。この時点でも軌道を平面移設することで玉川線は存続させる計画だった。
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世田谷区議会と世田谷区長から蛇崩川ルートに反対する要望書を建設大臣宛に提出
新玉川線が三軒茶屋〜桜新町間で玉川線と同じルートを通過しないことは世田谷区民の要望を満たさないとして、世田谷区議等により「新玉川線地下推進協議会」が結成された。この協議の場では、新玉川線を玉川線のルートを全線地下で結び、玉川線を廃止することで道路渋滞が改善されるとした。
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都市交通審議会の10号答申で新玉川線区間に11号線が設定
新玉川線は営団銀座線との相互直通運転が計画されていたが、輸送力に限界があり、田園都市線との直通運転にも支障があることから、二子玉川〜蛎殻町間を結ぶ11号線が設定された。
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5者会談により新玉川線の全線地下化、玉川線廃止について提案
建設省、首都高速道路公団、東京都、世田谷区、東急が出席。
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デハ37号、デハ43・44号が廃車
玉川・砧線廃止の方針が浮上してきたことから、余剰車両の廃車が開始された。軌道線の旅客車両の廃車は1946年4月のデハ27号以来となった。
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5者間で「首都高速道路3号線(2期)の建設に伴う現玉川線及び新玉川線の処理方針」の覚書が締結
建設省、首都高速道路公団、東京都、世田谷区、東急の5者間で、新玉川線の国道246号線直下への渋谷〜用賀間地下化と玉川線の廃止、バス代行の方針が決定された。
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デハ87・95・100・102号が廃車
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首都高速道路公団と「首都高速道路3号線(2期)建設に伴う玉川線の処理ならびにバス代行に要する補償について」協定を締結
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運輸省に「玉川線および砧線廃止許可申請書」を提出
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東京都市高速鉄道第11号線として都市計画決定
建設省告示第3731号により11号線が都市計画決定され、新玉川線は銀座線との相互直通運転の計画を変更し、11号線の一部として建設されることが決定した。
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【日不詳】上町車庫の建設開始
※実施日が不詳のため、月末である31日で登録しています。
上町停留場下りホームが現在の検車庫付近から、現在の位置に移設された。
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デハ88・90号、デハ202・203号が廃車
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デハ47号、デハ98・101号が廃車
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玉川線・砧線の廃止許可を取得
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乗合バス大橋営業所が開設
玉川線の大橋車庫の一部敷地が玉電代行バスの拠点として整備された。代行バス用に新製された116台の長尺車と不動前営業所から転属した40台の計156台が配置され、整備工場、給油所、洗車場、乗務員宿泊所が整備された。玉川線廃止後に大橋車庫の残りの敷地も営業所の敷地に転用された。
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玉川線・砧線に「さようなら玉電」花電車を運転
デハ65号による花電車が5月10日までの3日間、廃止区間全線を走行した。
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玉川線(渋谷〜二子玉川園間9.1km)・砧線(二子玉川園〜砧本村間2.2km)が営業終了、玉川線(三軒茶屋〜下高井戸間5.1km)は翌日から世田谷線として存続
5月10日の終電をもって営業運転を終了し、5月11日付で廃止された。渋谷24:20発二子玉川園行き最終列車はデハ201号、渋谷24:35発大橋行き最終列車はデハ204号で運転され、深夜の渋谷駅には500人以上が見送りに訪れた。
玉川線三軒茶屋〜下高井戸間5.1kmは5月11日初電から世田谷線と改称して運転が継続され、デハ70形8両、デハ80形10両、デハ150形4両の合計22両が継承された。
また玉川線管区、大橋検車区、大橋・駒沢・二子変電所も廃止された。
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玉川・砧線廃止に伴いデハ30形、デハ40形、デハ60形、デハ200形の全車両、デハ80形の一部が廃車
最終日まで運転されたデハ30形デハ31〜36・38・39号、デハ40形デハ41・42・45・46・48〜52号、デハ60形デハ61〜65号、デハ80形デハ89・91〜94・96・97・99・103・108号、デハ200形デハ201・204〜206号が、営業終了翌日の5月11日付で廃車された。これによりデハ30形、デハ40形、デハ60形、デハ200形は形式消滅した。
なおデハ34号は二子玉川園、デハ204号は多摩川園、デハ61〜65号はこどもの国、デハ91号は世田谷区総合運動場、デハ206号は千葉県野田市の清水公園でそれぞれ静態保存されたが、デハ204号以外の車両はその後解体され現存しない。
この歴史年表の制作にあたり、以下の文献・資料、ウェブサイトを参考にさせていただきました。感謝申し上げます。
<参考文献・資料等>
- 東京横浜電鉄株式会社「東京横浜電鉄沿革史」(1943年)
- 東京急行電鉄株式会社「東京急行電鉄50年史」(1973年)
- 東京急行電鉄株式会社「新玉川線建設史」(1980年)
- 東急株式会社「東急100年史」(2023年)
- 東急バス株式会社・株式会社東急トランセ「東急バス 創立20周年 東急バス 東急トランセ これまでの歩み」(2011年)
- 林順信「世田谷のちんちん電車 玉電今昔」大正出版(1984年)
- 宮脇俊三・宮田道一「世田谷たまでん時代」大正出版(1994年)
- 「東急電車形式集.3」レイルロード・文苑堂東京店(1997年)
- 「鉄道ピクトリアル」電気車研究会(1972年9月号、1985年1月号、1994年12月号、2004年7月号ほか)
- 為国孝敏・榛沢芳雄「玉川電気鉄道の変遷と東京西南部地域の変容との関連についての一考察」土木史研究第13号(1993年)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/13/0/13_0_221/_pdf/-char/ja - 逓信省通信局・電気局「電気事業要覧」第1回〜第14回(1907年〜1922年)
- 大日本帝国内務省大臣官房文書課「統計報告」第24回〜第37回(1910年〜1924年)
- 工業雑誌社「工業雑誌」第22巻第307号(1905年)
- 堀内猪之助「東急と上田交通」(1979年)
- 長崎電気軌道株式会社「長崎電気軌道100年史」(2015年)
<参考ウェブサイト>
- 「東急株式会社」ウェブサイト https://www.tokyu.co.jp
- 「国立公文書館 デジタルアーカイブ」 https://www.digital.archives.go.jp
- 「国立国会図書館デジタルコレクション」https://dl.ndl.go.jp
- 「東京都公文書館」ウェブサイト https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/
- 「Geoshapeリポジトリ 地理形状データ共有サイト」 https://geoshape.ex.nii.ac.jp
- 「gayasan8560のブログ」ウェブサイト https://ameblo.jp/gayasan8560/
- 「ぽこぺん都電館」ウェブサイト http://toden.la.coocan.jp