100年前の世田谷線の車窓から

 世田谷線開通時の写真はあまり残されておらず、当時の車窓を想像するには地図を頼るしかありません。そこで100周年の節目を迎えるにあたり、敷設計画時の申請図面をもとに開通当時の地図を作成しました。この100年に田園風景から住宅地に変貌を遂げましたが、線路の位置はほとんどかわっていないことがわかります。100年前から今もそのまま残る古道の存在に気づいたり、あるいは逆に区画整理で小川や畦道が消え、全く当時の面影が残っていない場所を見つけることもできるかと思います。
 100年前の車窓から広がる景色に想いを馳せながらご覧いただけますと幸いです。

三軒茶屋〜上町間

100年前の世田谷線の車窓から

 1924年3月、三軒茶屋〜上町間が第1工区として先に着工されました。工事の途中で大吉寺の傍に世田谷停留場を設置することが決まり、当初の世田谷停留場は上町停留場と改称されます。先に完成して開通したのは新たに設置することになった世田谷までで、世田谷〜上町間は第2工区とともに3ヶ月遅れで完成しています。この事情は不明ですが、1924年12月から敷設が完了した線路を順次仮線として使用し、電動貨車と付随貨車により資材搬入する旨の許可を得た記録があることから、上町付近を工事ヤードとして使うために開通を遅らせたのではないかと考えられます。
 平面図を見ると三軒茶屋付近を除いてほとんどが田畑で、烏山川沿いは水田が多かったことがわかります。用水路も多く線路を横切っていましたが、現在も名残を見ることができるのは若林駅のホーム下を通る烏山川支流(通称若林川)だけです。


100年前の世田谷線の車窓から

 世田谷線開通前は左図の「玉川・下高井戸方面乗降場所」に上下電車とも停車していましたが、世田谷線の開通により乗降者数の増加が見込まれるため、渋谷方面の乗降位置が変更されました。
 開通当初は世田谷通りを50mほど入ったところから併用軌道となり、S字カーブを描いていましたが、1940年代に軌道改良が行われ、併用軌道部分にホームが設置されました。


100年前の世田谷線の車窓から

 現在もホーム長が伸びている程度でほぼ変わりなく、開通当時の面影が残っています。線路に並行してホームを囲っている道路は世田谷線敷設の際に付け替えで誕生した道です。


100年前の世田谷線の車窓から

 開通当時は下りホームが三軒茶屋方にありました。今もホーム跡が鉄道用地としてそのまま残っています。


100年前の世田谷線の車窓から

100年前の世田谷線の車窓から

100年前の世田谷線の車窓から

上町〜下高井戸間

100年前の世田谷線の車窓から

国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」をもとに作図

 上町〜下高井戸間は第2工区として、第1工区に4ヶ月遅れて1924年7月に着工されました。こちらも工事の途中で停留場の改廃や名称変更が行われています。平面図に描かれている建物は第1工区よりも更に少なくなり、田畑が広がるのどかな農村地帯であったことがわかります。七軒町付近は北沢川から引かれた用水路が水田を縫って張り巡らされており、現在でも赤堤通りを渡る山下3号踏切傍にある北沢川支流の鉄橋や、松原2号踏切傍の用水路に当時の名残を見ることができます。


100年前の世田谷線の車窓から

100年前の世田谷線の車窓から

100年前の世田谷線の車窓から

100年前の世田谷線の車窓から

100年前の世田谷線の車窓から

100年前の世田谷線の車窓から

100年前の世田谷線の車窓から

ページ内の各平面図は以下の資料をもとに作図しました。

  • 三軒茶屋〜上町間平面図
    国立公文書館所蔵「世田谷線三軒茶屋世田谷間電気軌道新設線路平面図(1924年12月8日付申請書)」
  • 上町〜下高井戸間平面図
    国立公文書館所蔵「世田谷線世田谷下高井戸間電気軌道新設線路平面図(1925年1月26日付申請書)」
  • 三軒茶屋停留場平面図
    国立公文書館所蔵「三軒茶屋停留場付近軌道線路平面図(1925年1月12日付申請書)」
  • 西山・若林・松陰神社前各停留場平面図
    東京都公文書館所蔵「各電車停留場設備図(1923年1月20日付申請書)」
  • 世田谷停留場平面図
    国立公文書館所蔵「世田谷停留場設備図(1293年12月8日付申請書)」
  • 上町・豪徳寺前・宮ノ坂・前田・六所神社前・七軒町・下高井戸各停留場平面図
    東京都公文書館所蔵「各電車停留場設備図(1923年7月25日付申請書)」
  • 山下停留場平面図
    国立公文書館所蔵「山下停留場付近平面図(1924年1月26日付申請書)」