玉電のいま

 1969年5月10日、玉川線渋谷〜二子玉川園間と砧線が廃止となってすでに半世紀以上が経ちました。廃止翌日に着工した新玉川線や首都高速3号線の建設に加え、周囲の再開発によって沿線風景は景色は一変しましたが、今もわずかながら玉電時代の名残が点在しています。最近は玉電時代から沿道にあった印象的な建物が急速に姿を消しており、渋谷駅周辺再開発では玉電乗り場の名残が色濃く残っていた玉電ビル(後の東急会館、東急東横店西館)も解体されました。
 このページは玉電の「いま」としていますが、最近の風景だけでなく、過去に撮影した写真も使用しながら、今は姿を消してしまった風景も記録として残しておきたいと思います。
 今後も目まぐるしいスピードで変化を続けていく東京の街で、玉電の名残を見ることができるのは今が最後の刻かもしれません。

【撤去済】玉電ビルと渋谷停留場跡

玉電のいま

 近年まで渋谷付近では玉電の名残を数多く見ることができましたが、1994年から始まった渋谷マークシティの建設や、2020年の東急東横店西館の閉店以降の再開発によって、当時の面影はほとんど消滅してしまいました。
 開通当初の渋谷停留場は、山手線の手前で南へ急カーブして国道246号線の手前まで線路が伸びており、以前の東急東横店南館の場所は貨物積卸場となっていました。後に山手線をガードで直進する広尾線が開通しますが、1937年に玉電ビルの建設が始まると2階部分にホームが移されることになり、広尾線は分断されました。広尾線が直通していた頃のガード跡は、2013年3月まで東急百貨店の東館と西館を繋ぐ連絡通路として使用されており、面影を辿ることができました。
 1969年5月の玉電廃止後にはホーム跡がそのままバスターミナルとして活用されることになり、1994年の渋谷マークシティ着工によるバスターミナルの廃止まで、玉電の停留場の面影が色濃く残されていました。マークシティの完成後も東急東横店西館の外壁にはホーム上家の痕跡が残っていましたが、解体工事の進捗によって2024年頃に姿を消しました。
 また、玉電ビルとして建設された東急東横店西館の2階部分には、玉川線乗換口の意味で名付けられた山手線の「玉川改札」が2020年9月まで設置されていたほか、コンコースの床面タイルや内装は玉電が乗り入れていた頃の雰囲気のまま残されていました。
 2025年夏現在、かつての玉電ビルは数本の柱を残すのみとなり、まもなく渋谷の街から玉電の面影が完全に姿を消すことになります。

東京都公文書館所蔵「玉川線自澁谷至玉川間電気軌道線路平面図(1934年3月5日付申請書・1939年2月15日付申請書)」をもとに作図

  • 広尾線軌道跡に設置された東急百貨店東館・西館連絡通路/2013年3月24日 東急百貨店西館
    広尾線軌道跡に設置された東急百貨店東館・西館連絡通路/2013年3月24日 東急百貨店西館
  • 東急百貨店東館・西館連絡通路の広尾線天現寺橋方面の軌道跡/2013年3月24日 東急百貨店西館
    東急百貨店東館・西館連絡通路の広尾線天現寺橋方面の軌道跡/2013年3月24日 東急百貨店西館
  • 東急百貨店東館・西館連絡通路の広尾線渋谷方面の軌道跡/2013年3月24日 東急百貨店西館
    東急百貨店東館・西館連絡通路の広尾線渋谷方面の軌道跡/2013年3月24日 東急百貨店西館
  • 東急百貨店西館全景/2020年3月12日 渋谷駅
    東急百貨店西館全景/2020年3月12日 渋谷駅
  • 玉川改札コンコースの玉川線渋谷停留場跡/2020年3月12日 渋谷駅
    玉川改札コンコースの玉川線渋谷停留場跡/2020年3月12日 渋谷駅
  • 玉川改札コンコースの玉川線渋谷停留場跡/2020年3月12日 渋谷駅
    玉川改札コンコースの玉川線渋谷停留場跡/2020年3月12日 渋谷駅
  • 渋谷マークシティ連絡通路の玉川線渋谷停留場跡/2020年3月12日 渋谷駅
    渋谷マークシティ連絡通路の玉川線渋谷停留場跡/2020年3月12日 渋谷駅
  • 玉川改札コンコース/2020年3月12日 渋谷駅
    玉川改札コンコース/2020年3月12日 渋谷駅
  • 玉川改札コンコースから見た玉川線渋谷停留場跡/2020年3月12日 渋谷駅
    玉川改札コンコースから見た玉川線渋谷停留場跡/2020年3月12日 渋谷駅
  • 山手線玉川改札/2020年3月12日 渋谷駅
    山手線玉川改札/2020年3月12日 渋谷駅
  • 連絡通路から見た東急百貨店西館の玉川線ホーム上家跡/2020年10月2日 渋谷駅
    連絡通路から見た東急百貨店西館の玉川線ホーム上家跡/2020年10月2日 渋谷駅
  • 東急百貨店西館の外壁に残る玉川線ホーム上家跡/2020年10月2日 渋谷駅
    東急百貨店西館の外壁に残る玉川線ホーム上家跡/2020年10月2日 渋谷駅
  • 東急百貨店西館の外壁に残る玉川線ホーム上家跡/2020年10月2日 渋谷駅
    東急百貨店西館の外壁に残る玉川線ホーム上家跡/2020年10月2日 渋谷駅
  • 東急百貨店西館の解体中に見ることができた玉電ビルの躯体/2022年8月7日 渋谷駅
    東急百貨店西館の解体中に見ることができた玉電ビルの躯体/2022年8月7日 渋谷駅
  • 東急百貨店西館の解体中に見ることができた玉電ビルの躯体/2022年8月7日 渋谷駅
    東急百貨店西館の解体中に見ることができた玉電ビルの躯体/2022年8月7日 渋谷駅
  • 東急百貨店西館の解体中に見ることができた玉電ビルの躯体/2022年8月7日 渋谷駅
    東急百貨店西館の解体中に見ることができた玉電ビルの躯体/2022年8月7日 渋谷駅
  • 東急百貨店西館解体中の玉川線ホーム上家跡/2023年7月16日 渋谷駅
    東急百貨店西館解体中の玉川線ホーム上家跡/2023年7月16日 渋谷駅
  • 東急百貨店西館解体中の玉川線ホーム上家跡/2023年7月16日 渋谷駅
    東急百貨店西館解体中の玉川線ホーム上家跡/2023年7月16日 渋谷駅

大橋車庫跡の玉電モニュメント

玉電のいま

 大橋には開通当初から車庫、火力発電所、変電所が設置され、玉電の中枢を担っていました。1913年には自家発電から買電に切り替えたため火力発電所は廃止されましたが、1939年には渋谷にあった運輸課事務所も大橋に集約されました。
 1969年5月の玉電廃止にあたり、車庫の敷地は玉電代行バスの運行拠点となる東急バス大橋営業所に転用されました。変電所の建物も残され、ファサードには玉川電気鉄道時代の社紋がついたままになっていましたが、周辺一帯に首都高速道路の大橋ジャンクションが建設されることになり、2002年9月に大橋営業所の閉所を控えた2001年頃に姿を消しました。
 2010年3月に大橋ジャンクションが完成すると、東側の道路脇に軌道と安全地帯を模したモニュメントが設置され、かろうじて今も玉電がこの地にあったことを教えてくれます。なお、変電所にあった玉川電気鉄道の社紋は、レプリカが制作され宮崎台の「電車とバスの博物館」に展示されています。

東京都公文書館所蔵「玉川線自澁谷至玉川間電気軌道線路平面図(1939年2月15日付申請書)」をもとに作図

  • 大橋車庫側から見た入出庫線跡/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
    大橋車庫側から見た入出庫線跡/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
  • 入出庫線跡の鉄道柵/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
    入出庫線跡の鉄道柵/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
  • 旧玉川電気鉄道大橋変電所正面/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
    旧玉川電気鉄道大橋変電所正面/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
  • 東急バス大橋変電所入口/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
    東急バス大橋変電所入口/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
  • 国道246号線から見た入出庫線/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
    国道246号線から見た入出庫線/1999年5月10日 東急バス大橋営業所
  • 宮崎台の電車とバスの博物館に展示された玉川電気鉄道社紋(レプリカ)/2003年3月21日 電車とバスの博物館
    宮崎台の電車とバスの博物館に展示された玉川電気鉄道社紋(レプリカ)/2003年3月21日 電車とバスの博物館
  • 大橋ジャンクション建設中の大橋停留場跡付近/2007年8月2日 池尻大橋
    大橋ジャンクション建設中の大橋停留場跡付近/2007年8月2日 池尻大橋
  • 建設中の大橋ジャンクション/2007年8月2日 池尻大橋
    建設中の大橋ジャンクション/2007年8月2日 池尻大橋
  • 大橋ジャンクション建設中の入出庫線跡/2007年8月2日 池尻大橋
    大橋ジャンクション建設中の入出庫線跡/2007年8月2日 池尻大橋
  • 建設中の大橋ジャンクション/2007年8月2日 池尻大橋
    建設中の大橋ジャンクション/2007年8月2日 池尻大橋
  • 大橋ジャンクション脇に再現された玉電モニュメント/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
    大橋ジャンクション脇に再現された玉電モニュメント/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
  • 大橋ジャンクションの玉電モニュメント説明板/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
    大橋ジャンクションの玉電モニュメント説明板/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
  • 大橋ジャンクション脇に再現された軌道敷と安全地帯/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
    大橋ジャンクション脇に再現された軌道敷と安全地帯/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
  • 大橋ジャンクション脇に再現された玉電モニュメントの全景/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
    大橋ジャンクション脇に再現された玉電モニュメントの全景/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
  • 目黒川沿いに設置された玉電の説明板/2022年5月8日 O-Path目黒大橋
    目黒川沿いに設置された玉電の説明板/2022年5月8日 O-Path目黒大橋

三軒茶屋交差点に残る当時からのランドマーク

玉電のいま

 1969年5月の玉電廃止の翌日から、国道246号線の直下では新玉川線、直上では首都高速道路3号線の建設工事が開始され、周囲の風景は一変しました。一見すると玉電時代の面影はほとんど残っていないように感じますが、三軒茶屋交差点から周囲を見渡すと、玉電時代から残っている建物を未だ多く見つけることができます。
 一番目立つのは、大山道標のところに建つビックエコー三軒茶屋店のビルでしょうか。1965年頃に協和銀行三軒茶屋支店として建設されたもので、三軒茶屋のランドマークの一つとして存在感を放つ建物ですが、交差点を行き交う玉電と一緒に映り込んでいる写真が多く残されています。
 また、その奥にあるエコー仲見店や三茶3番街は、玉電の三軒茶屋停留場に接続する形で通路が通されており、停留場の面影を見ることができます。近年はビルが増えてきましたが、交差点付近にはまだまだ玉電時代から商いを続けるお店も少なくありません。当時の写真を片手に買い物を楽しんでみるのも楽しいかもしれません。

東京都公文書館所蔵「玉川線自澁谷至玉川間電気軌道線路平面図(1939年2月15日付申請書)」をもとに作図

  • りそな銀行が2003年に退店し、空きビルとなっていた頃の旧協和銀行三軒茶屋支店ビル/2004年3月29日 三軒茶屋交差点
    りそな銀行が2003年に退店し、空きビルとなっていた頃の旧協和銀行三軒茶屋支店ビル/2004年3月29日 三軒茶屋交差点
  • 三軒茶屋交差点の玉川線分岐部跡付近/2003年3月13日 三軒茶屋交差点
    三軒茶屋交差点の玉川線分岐部跡付近/2003年3月13日 三軒茶屋交差点
  • 三軒茶屋交差点全景/2020年3月26日 三軒茶屋交差点
    三軒茶屋交差点全景/2020年3月26日 三軒茶屋交差点
  • 三軒茶屋停留場跡付近の玉電時代から残る建物群/2022年3月31日 三軒茶屋停留所
    三軒茶屋停留場跡付近の玉電時代から残る建物群/2022年3月31日 三軒茶屋停留所
  • 昭和の面影が残る三茶3番街の正面にそびえるキャロットタワー/2019年4月25日 三茶3番街
    昭和の面影が残る三茶3番街の正面にそびえるキャロットタワー/2019年4月25日 三茶3番街
  • 街のランドマークの一つとなっているビックエコー三軒茶屋店/2020年3月26日 三軒茶屋交差点
    街のランドマークの一つとなっているビックエコー三軒茶屋店/2020年3月26日 三軒茶屋交差点

駒沢大学駅の洗面台に活用された玉電の敷石

玉電のいま

 田園都市線の駒沢大学駅では、2021年7月からリニューアル工事が行われ、2025年3月に完成しましたが、2022年7月に設置された新しい駅構内トイレの洗面台に、玉電時代の敷石が活用されています。その後、駅構内のデジタルサイネージの下地部分にも敷石が使用されたようです。
 玉電の大半の区間は国道246号線上を併用軌道で通っていましたが、1964年の東京オリンピックを機に行われた道路拡張とともに軌道敷のアスファルト化が進められ、1969年5月の廃止まで敷石が残ったのは上通付近のわずかな区間だけでした。
 1960年代の初め頃、現在の用賀駅前の世田谷ビジネススクエアの場所にあった留置線脇に撤去された敷石が積まれていたと聞きますが、その後も50年以上ずっと保管されていたとは驚きですね。

東京都公文書館所蔵「玉川線自澁谷至玉川間電気軌道線路平面図(1939年2月15日付申請書)」をもとに作図

  • 田園都市線駒沢大学駅の男性用トイレ洗面所/2025年2月23日 駒沢大学駅
    田園都市線駒沢大学駅の男性用トイレ洗面所/2025年2月23日 駒沢大学駅
  • 田園都市線駒沢大学駅のトイレ洗面所に活用された玉電の敷石/2025年2月23日 駒沢大学駅
    田園都市線駒沢大学駅のトイレ洗面所に活用された玉電の敷石/2025年2月23日 駒沢大学駅
  • 田園都市線駒沢大学駅の男性用トイレ入口/2025年2月23日 駒沢大学駅
    田園都市線駒沢大学駅の男性用トイレ入口/2025年2月23日 駒沢大学駅

用賀停留場跡の石標

玉電のいま

 玉電時代は用賀停留場の前後は専用軌道になっており、1969年5月の廃止後は線路が外されたまま長らく空地になっていましたが、1994年に補助第212号線として道路化されました。当初は複線の軌道幅に合わせて一方通行で供用開始されましたが、徐々に用地の拡幅が進められており、線路があった頃の面影を残す建物はほとんど姿を消しています。
 この道路上にある用賀停留場の跡地には、地域団体によって「玉電用賀駅跡」の石標が設置され、玉電の痕跡を今に伝えています。玉川周辺に点在する名所・旧跡には同様の石標が数多く設置されており、この石標を巡りながら拓本を集めることができる「てくたくぶっく」が発売されています(発売箇所は随時変更されている模様ですので、検索等でご確認ください)。

東京都公文書館所蔵「玉川線自澁谷至玉川間電気軌道線路平面図(1939年2月15日付申請書)」をもとに作図

  • 用賀停留場跡と「玉電用賀駅跡」石標/2003年5月10日 用賀駅
    用賀停留場跡と「玉電用賀駅跡」石標/2003年5月10日 用賀駅
  • 田園都市線用賀駅の避難用出口横に設置された「玉電用賀駅跡」石標/2025年1月11日 用賀駅
    田園都市線用賀駅の避難用出口横に設置された「玉電用賀駅跡」石標/2025年1月11日 用賀駅
  • 「玉電用賀駅跡」石標/2025年1月11日 用賀駅
    「玉電用賀駅跡」石標/2025年1月11日 用賀駅

身延山別院前停留場跡の歩道橋

玉電のいま

 玉電の瀬田〜二子玉川園間の軌道敷はそのまま新玉川線の建設用地に転用されており、国分寺崖線の切り通しを多摩川へ向けて降りていく風景に、玉電開通当時の雰囲気が残ります。地下道の出口付近に設置されている歩道橋は、玉電時代にあった踏切道を引き継いでいますが、もともとこの踏切道は身延山別院前停留場の構内踏切を兼ねて設置されていたものです。停留場は1941年12月に休止されましたが、玉電の廃止まで踏切道は残り、ホーム跡も残されていました。
 新玉川線の建設時にホーム跡は削り取られましたが、踏切の代替として設置された歩道橋が身延山別院前停留場の存在を知らせる微かな手がかりとなっています。

東京都公文書館所蔵「玉川線自澁谷至玉川間電気軌道線路平面図(1939年2月15日付申請書)」をもとに作図

  • 身延山別院前停留場跡を通過する田園都市線8500系/2018年6月8日 二子玉川〜用賀間
    身延山別院前停留場跡を通過する田園都市線8500系/2018年6月8日 二子玉川〜用賀間
  • 田園都市線の地上区間に出る8500系/2020年4月14日 用賀〜二子玉川間
    田園都市線の地上区間に出る8500系/2020年4月14日 用賀〜二子玉川間
  • 身延山別院前停留場跡を通過する田園都市線8500系/2020年5月11日 用賀〜二子玉川間
    身延山別院前停留場跡を通過する田園都市線8500系/2020年5月11日 用賀〜二子玉川間

二子玉川の二子橋と砧線分岐部跡

玉電のいま

 1925年7月に完成した国道246号線の二子橋は、玉川電気鉄道が建設費52万円のうち15万円を負担し、1927年7月から道路上の併用軌道を溝ノ口線の電車が走りはじめました。1966年3月に田園都市線二子橋梁が完成してからは道路橋となりましたが、現在も玉電開通当時の橋梁が補強を重ねながら使用されています。
 二子玉川駅周辺は近年の再開発によって玉電時代の面影を見ることはできなくなりましたが、今も砧線との分岐部跡に唯一線路のあった痕跡が残されています。
 玉川線の線路敷跡は田園都市線の高架線が通っていますが、砧線の線路敷跡に建てられた玉川高島屋S・Cの東館駐車場の敷地境界は今も独特のカーブを描いており、玉川線から砧線へと分岐していく線路の痕跡を辿ることができます。
 敷地境界には東急線でよく見かけるコンクリート柵が設置されており、玉電時代の写真にも同じタイプの柵が映り込んでいますが、現在の柵は近年の駐車場建設時に建て替えられたもので、玉電時代のものではありません。
 

東京都公文書館所蔵「玉川線自澁谷至玉川間電気軌道線路平面図(1939年2月15日付申請書)」「停留場地点及線路経過地一部変更線路平面図(1927年2月2日付申請書)」をもとに作図

二子橋・二子橋梁

  • 手前は道路専用橋となった国道246号線二子橋、奥は田園都市線二子橋梁/2020年4月14日 二子新地〜二子玉川間
    手前は道路専用橋となった国道246号線二子橋、奥は田園都市線二子橋梁/2020年4月14日 二子新地〜二子玉川間
  • 富士観会館と二子橋/2003年3月28日 二子玉川
    富士観会館と二子橋/2003年3月28日 二子玉川
  • 二子橋に代わり、1966年3月に完成した田園都市線二子橋梁を走る8500系/2020年3月26日 二子玉川〜二子新地間
    二子橋に代わり、1966年3月に完成した田園都市線二子橋梁を走る8500系/2020年3月26日 二子玉川〜二子新地間

砧線分岐部跡

  • 玉川線二子玉川園停留場跡に建てられた東急ストア/2003年3月28日 二子玉川
    玉川線二子玉川園停留場跡に建てられた東急ストア/2003年3月28日 二子玉川
  • 砧線軌道跡に設置された有料駐輪場/2003年3月28日 二子玉川
    砧線軌道跡に設置された有料駐輪場/2003年3月28日 二子玉川
  • 生垣部分が砧線軌道敷跡、奥の高架上を通るのは田園都市線/2013年3月3日 二子玉川
    生垣部分が砧線軌道敷跡、奥の高架上を通るのは田園都市線/2013年3月3日 二子玉川
  • 砧線軌道敷跡に建てられた玉川高島屋S.C.駐車場の敷地境界には鉄道柵が再設置/2013年3月3日 二子玉川
    砧線軌道敷跡に建てられた玉川高島屋S.C.駐車場の敷地境界には鉄道柵が再設置/2013年3月3日 二子玉川
  • 左側が砧線軌道敷跡/2013年3月3日 二子玉川
    左側が砧線軌道敷跡/2013年3月3日 二子玉川
  • 右側の鉄道柵裏が砧線軌道敷跡、右側の高架線は田園都市線/2013年3月3日 二子玉川
    右側の鉄道柵裏が砧線軌道敷跡、右側の高架線は田園都市線/2013年3月3日 二子玉川

中耕地駅跡の石標

玉電のいま

 砧線の軌道敷跡のうち、東名高速道路との交差部分から吉沢駅跡までは「砧線跡歩道」として整備されています。中耕地駅の跡地には用賀停留場と同様に「砧線中耕地駅跡」の石標が設置されているほか、遊歩道のマンホールや柵には玉電のイラストが描かれており、街歩きを楽しみながら廃線跡を気軽に辿ることができるスポットとして数多くのメディアで取り上げられています。
 渋谷〜二子玉川園間の玉川線の痕跡が急速に消えつつある今、玉電のメモリアルロードとして大きな役割を果たしています。

国立公文書館所蔵「砧線玉川砧間軌道新設線路平面図(1923年4月21日付申請書)」をもとに作図

  • 「砧線中耕地駅跡」石標/2013年3月3日 中耕地駅跡
    「砧線中耕地駅跡」石標/2013年3月3日 中耕地駅跡
  • 「砧線跡歩道」案内標/2013年3月3日 中耕地駅跡
    「砧線跡歩道」案内標/2013年3月3日 中耕地駅跡
  • 登場時は砧線でも運行されたデハ80形が描かれた砧線跡歩道上の柵/2013年3月3日 中耕地駅跡付近
    登場時は砧線でも運行されたデハ80形が描かれた砧線跡歩道上の柵/2013年3月3日 中耕地駅跡付近
  • 砧線と縁の深いデハ1・20形が描かれた砧線跡歩道上のマンホール/2013年3月3日 中耕地駅跡付近
    砧線と縁の深いデハ1・20形が描かれた砧線跡歩道上のマンホール/2013年3月3日 中耕地駅跡付近
  • 砧線中耕地駅前の中耕地1号踏切道跡/2013年3月3日 中耕地駅跡
    砧線中耕地駅前の中耕地1号踏切道跡/2013年3月3日 中耕地駅跡
  • 砧線中耕地駅跡/2013年3月3日 中耕地駅跡
    砧線中耕地駅跡/2013年3月3日 中耕地駅跡

吉沢〜砧本村間の軌道跡に架かる吉澤橋

玉電のいま

 西に向かって進む砧線の線路は、吉沢駅の手前で南側に急カーブして野川を越えてから再び西側にカーブしていました。吉沢駅までの軌道跡は遊歩道となっていますが、ここから先は一般道路に変わり、砧線の代替バスである玉06系統が運行されています。単線の軌道幅のまま転用されており、砧本村方向へ向けての一方通行となっていることから、二子玉川方向へのバスは多摩堤通りを通ります。
 道路への転用当初、野川に架けられた新吉沢橋は、砧線の町田川橋梁の桁橋をそのまま転用したものでしたが、2007年に現在の吉澤橋が完成し、砧線時代の桁橋は役目を終えました。吉澤橋の歩道には砧線の説明板とデハ60形を描いたレリーフが飾られており、この地に砧線が走っていたことを教えてくれます。

国立公文書館所蔵「砧線玉川砧間軌道新設線路平面図(1923年4月21日付申請書)」をもとに作図

  • 吉沢駅跡に設置された東急バス吉沢停留所/2003年3月28日 吉沢停留所
    吉沢駅跡に設置された東急バス吉沢停留所/2003年3月28日 吉沢停留所
  • 砧線町田川橋梁の桁橋が使用された新吉沢橋/2003年3月28日 吉沢停留所
    砧線町田川橋梁の桁橋が使用された新吉沢橋/2003年3月28日 吉沢停留所
  • 新吉沢橋から見た吉沢駅跡/2003年3月28日 吉沢停留所
    新吉沢橋から見た吉沢駅跡/2003年3月28日 吉沢停留所
  • 吉沢駅跡の砧線跡歩道の終端部/2013年3月3日 吉沢停留所
    吉沢駅跡の砧線跡歩道の終端部/2013年3月3日 吉沢停留所
  • 2007年に架け替えられた吉澤橋/2013年3月3日 吉沢停留所
    2007年に架け替えられた吉澤橋/2013年3月3日 吉沢停留所
  • 吉澤橋に設置されたデハ64号のレリーフ/2013年3月3日 吉沢停留所
    吉澤橋に設置されたデハ64号のレリーフ/2013年3月3日 吉沢停留所

【撤去済み】砧本村駅跡のバス待合所

玉電のいま

 砧線廃止後の砧本村駅跡は、終端部分が代替バスの折返場とされたほか、構内の東側には1972年頃に鎌田二丁目南公園が設置されましたが、その後1980年頃に区民集会所が設置されるまでは、ホームの一部が残されていました。
 また、駅のホーム上家の一部がバス待合所として流用され、長年砧線の駅跡であることを伝えていましたが、2022年12月に建替えのため撤去されました。当時の報道によれば、部材ごとに解体され、東急バス社内に再利用が可能な状態で保存されているようです。どこかでまた見られる日が来るかもしれません。

国立公文書館所蔵「砧線玉川砧間軌道新設線路平面図(1923年4月21日付申請書)」をもとに作図

  • 玉06系統が発着する砧本村停留所/2003年3月28日 砧本村停留所
    玉06系統が発着する砧本村停留所/2003年3月28日 砧本村停留所
  • 砧線砧本村駅のホーム上家が転用されたと思われる砧本村バス待合所/2003年3月28日 砧本村停留所
    砧線砧本村駅のホーム上家が転用されたと思われる砧本村バス待合所/2003年3月28日 砧本村停留所
  • 砧線軌道跡から見た砧本村駅跡/2013年3月3日 砧本村停留所付近
    砧線軌道跡から見た砧本村駅跡/2013年3月3日 砧本村停留所付近
  • 砧本村駅跡に設置された鎌田二丁目南公園/2013年3月3日 砧本村停留所付近
    砧本村駅跡に設置された鎌田二丁目南公園/2013年3月3日 砧本村停留所付近
  • 鎌田二丁目南公園の滑り台付近が砧本村駅跡/2013年3月3日 砧本村停留所付近
    鎌田二丁目南公園の滑り台付近が砧本村駅跡/2013年3月3日 砧本村停留所付近
  • 鎌田二丁目南公園の裏から見た鉄道柵、中央部付近が砧本村駅跡/2013年3月3日 砧本村停留所付近
    鎌田二丁目南公園の裏から見た鉄道柵、中央部付近が砧本村駅跡/2013年3月3日 砧本村停留所付近
  • 自動販売機付近が砧本村駅跡/2013年3月3日 砧本村停留所
    自動販売機付近が砧本村駅跡/2013年3月3日 砧本村停留所
  • 砧線砧本村駅の二子玉川園方のホーム上家が転用されたと思われる砧本村バス待合所/2013年3月3日 砧本村停留所
    砧線砧本村駅の二子玉川園方のホーム上家が転用されたと思われる砧本村バス待合所/2013年3月3日 砧本村停留所
  • 砧本村バス待合所全景/2013年3月3日 砧本村停留所
    砧本村バス待合所全景/2013年3月3日 砧本村停留所
  • 砧本村バス待合所内部/2013年3月3日 砧本村停留所
    砧本村バス待合所内部/2013年3月3日 砧本村停留所
  • 砧本村バス待合所内部のベンチと周辺地図/2013年3月3日 砧本村停留所
    砧本村バス待合所内部のベンチと周辺地図/2013年3月3日 砧本村停留所
  • 砧本村バス停留場全景/2013年3月3日 砧本村停留所
    砧本村バス停留場全景/2013年3月3日 砧本村停留所

電車とバスの博物館のデハ204号

 田園都市線宮崎台駅の高架下にある「電車とバスの博物館」に、1969年の玉川線廃止まで活躍したデハ200形のデハ204号が保存展示されています。玉川線で運転された車両は3両が現存していますが、玉電時代の姿で保存されているのはこのデハ204号だけです。現在は屋内に展示されていることから保存状態は良好で、安全地帯をイメージしたホームに据え付けられ、往時の雰囲気を今に伝えています。
 デハ200形についての詳細はこちらのページをご覧ください。また、「電車とバスの博物館」については電車とバスの博物館公式サイトをご覧ください。


 玉電歴史年表世田谷線データベースからデハ204号に関する出来事を抜粋しています。


  • デハ203・204号が入籍

    東急車輛製造で製造された。


  • 玉川・砧線廃止に伴いデハ30形、デハ40形、デハ60形、デハ200形の全車両、デハ80形の一部が廃車

    最終日まで運転されたデハ30形デハ31〜36・38・39号(デハ34号は1968年9月13日から休車)、デハ40形デハ41・42・45・46・48〜52号、デハ60形デハ61〜65号、デハ80形デハ89・91〜94・96・97・99・103・108号、デハ200形デハ201・204〜206号が、営業終了翌日の5月11日付で廃車された。これによりデハ30形、デハ40形、デハ60形、デハ200形は形式消滅した。
    なおデハ34号は既に1968年から休車のうえ二子玉川園に展示されていたほか、デハ204号は多摩川園、デハ61〜65号はこどもの国、デハ91号は世田谷区総合運動場、デハ206号は千葉県野田市の清水公園でそれぞれ静態保存されたが、デハ204号以外の車両はその後解体され現存しない。


  • 田園都市線高津駅前にデハ204号が保存展示

    展示場所の多摩川園が1979年6月3日に閉園したため高津駅改札前の高架下に移設された。保存展示にあわせて「玉電200形保存記念乗車券」が発売された。「電車とバスの博物館」の開業は2年後の1982年4月3日となる。


  • 田園都市線高津駅の高架下に「電車とバスの博物館」が開業

    デハ204号は「電車とバスの博物館」の開業に先立ち、1980年4月4日に高津駅前へと保存展示されていた。


  • 田園都市線高津駅前でのデハ204号の展示終了

    デハ3450号を登場当時の姿に復元した510号の保存展示を行うため、デハ204号の展示が一旦終了し、高津駅付近の田園都市線高架下に移設・保管された。


  • デハ204号が「電車とバスの博物館」3号館に移設

    2月12日〜13日にかけて実施された。


  • デハ204号が展示された「電車とバスの博物館」3号館がオープン

    3号館1階の「玉電プラザ」に保存展示された。


  • デハ204号が高津から宮崎台に陸送

    「電車とバスの博物館」の宮崎台への移転に伴い、デハ204号が11月21日夜間から22日早朝にかけて高津から宮崎台へ陸送された。


  • 「電車とバスの博物館」が宮崎台で移転開業、デハ204号が再公開

    デハ204号はA館1階に展示された。


  • デハ204号1位側車内全景/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
    デハ204号1位側車内全景/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
  • デハ204号ステップ/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
    デハ204号ステップ/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
  • デハ204号TS-302台車全景/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
    デハ204号TS-302台車全景/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
  • デハ204号TS-302台車の車輪に混じるTS-501台車の車輪/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
    デハ204号TS-302台車の車輪に混じるTS-501台車の車輪/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
  • デハ204号TS-302台車の車軸部刻印/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
    デハ204号TS-302台車の車軸部刻印/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
  • デハ204号TS-501台車全景/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
    デハ204号TS-501台車全景/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
  • デハ204号運転台/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
    デハ204号運転台/1999年8月6日 電車とバスの博物館3号館
  • 陸送で宮崎台に到着したペコちゃん電車デハ204/2002年11月22日 宮崎台駅前
    陸送で宮崎台に到着したペコちゃん電車デハ204号/2002年11月22日 宮崎台駅前
  • 電車とバスの博物館3号館跡から宮崎台への搬出を待つデハ204号/2002年11月22日 高津駅
    電車とバスの博物館3号館跡から宮崎台への搬出を待つデハ204号/2002年11月22日 高津駅
  • 電車とバスの博物館3号館跡から搬出されたデハ204号2位側/2002年11月22日 高津駅
    電車とバスの博物館3号館跡から搬出されたデハ204号2位側/2002年11月22日 高津駅
  • 宮崎台での電車とバスの博物館オープン当日のデハ204号/2003年3月21日 電車とバスの博物館
    宮崎台での電車とバスの博物館オープン当日のデハ204号/2003年3月21日 電車とバスの博物館
  • 宮崎台の電車とバスの博物館に保存展示されたデハ204号/2005年11月17日 電車とバスの博物館
    宮崎台の電車とバスの博物館に保存展示されたデハ204号/2005年11月17日 電車とバスの博物館

宮坂区民センターの601号

 世田谷線宮の坂駅前にある世田谷区立宮坂区民センターに、1970年まで玉電・世田谷線で活躍後、江ノ電に譲渡された601号が保存展示されています。1990年の江ノ電での引退後、この場所に里帰りしました。車体や台車は江ノ電での引退時の状態が維持されていますが、車体色は世田谷線で1970年から2001年まで採用されていた東急グリーン塗装をまとっています。
 この601号は、1925年の世田谷線開通時に増備された木造車45号を1953年に更新して登場した車両で、玉川電気鉄道の歴史を今に伝える唯一の車両と言えます。
 601号の歴史についてはこちらのページをご覧ください。


 玉電歴史年表世田谷線データベースからデハ104号→デハ87号→601号に関する出来事を抜粋しています。


  • デハ29号が鋼製車体化、デハ104号に改番

    川崎車輛で製造された鋼製車体に廃車車両の機器を流用したうえで完成したが、新製車両ではなく車体更新扱いとなった。デハ20形からデハ80形に編入された。


  • デハ104号をデハ87号に改番


  • デハ87・88号が廃車、江ノ島鎌倉観光株式会社へ譲渡

    5月14日終電後に江ノ島〜腰越間の龍口寺付近から搬入され、極楽寺まで回送された。
    江ノ電ではデハ87号→601号、デハ88号→602号となり、2両固定編成に改造されて1970年9月1日に入籍した。


  • 宮の坂駅下りホーム隣接の宮坂地区会館で江ノ電601号が保存展示開始

    「世田谷線宮の坂駅界隈づくりコンペ」の採用案に基づき、宮の坂駅前に世田谷区立宮坂地区会館(現:宮坂区民センター)が建設され、隣接する宮の坂駅下りホーム上屋の建て替えが行われた。これにあわせ江ノ電で2000形導入と入れ替わりに1990年4月28日付で廃車された601号を里帰りさせて下りホーム隣接地に保存することとなり、7月4日深夜に七里ヶ浜から搬出され、5日早朝に宮の坂に到着、6日から世田谷線の塗装である緑一色に塗られた姿で展示された。
    なお本採用案の時点では、世田谷線から地区会館敷地内に線路を引き込み、現役車両を下りホームに向かい合わせで留置可能とする計画だったが実現しなかった。


  • 江ノ電601号「仕上げの一筆」記念式典が開催

    宮坂区民センターの江ノ電601号に2008年以来となる修復工事が実施された。これは世田谷区のふるさと納税「90年以上の時を経て、みんなの『玉電』をよみがえらせたい!」プロジェクトによるもので、283名から5,502,000円の寄付金が集められた。
    修復後の8月25日に寄付者を集めた記念式典を開催し、世田谷区長と寄付者代表により車体表記への仕上げの筆入れが行われた。


  • 宮坂区民センター601号 2位側から1位側を見た車内全景/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター) 
    宮坂区民センター601号 2位側から1位側を見た車内全景/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター) 
  • 宮坂区民センター601号 マスコン・ブレーキ弁/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター) 
    宮坂区民センター601号 マスコン・ブレーキ弁/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター) 
  • 宮坂区民センター601号 2位側からの全景/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター)
    宮坂区民センター601号 2位側からの全景/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター)
  • 宮坂区民センター601号 1位側からの全景/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター)
    宮坂区民センター601号 1位側からの全景/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター)
  • 宮坂区民センター601号 1位側台車全景/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター)
    宮坂区民センター601号 1位側台車全景/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター)
  • 宮坂区民センター601号 案内板/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター)
    宮坂区民センター601号 案内板/2025年3月4日  宮の坂駅(宮坂区民センター)

江ノ島・和菓子司「扇屋」の651号

 宮坂区民センターで保存中の601号と、江ノ電時代長らく相棒だった651号の先頭部が、江ノ島龍口寺の門前にある和菓子司「扇屋」の店先で保存されています。この651号も、1970年まで玉電・世田谷線で活躍後、江ノ電に譲渡され、1990年の引退後に極楽寺の検車区内で先頭部がカットされ、名物「江ノ電もなか」の製造・販売を行う「扇屋」の看板として第三の人生を送ることになりました。先頭部だけではありますが、玉電の主力車両だったデハ80形の面影が今も色濃く残されています。
 651号の前身、デハ88号についての詳細はこちらのページをご覧ください。また、「江ノ電もなか」については和菓子司「扇屋」公式サイトをご覧ください。


 玉電歴史年表世田谷線データベースからデハ105号→デハ88号→651号に関する出来事を抜粋しています。


  • デハ22号が鋼製車体化、デハ105号に改番

    川崎車輛で製造された鋼製車体に廃車車両の機器を流用したうえで完成したが、新製車両ではなく車体更新扱いとなった。デハ20形からデハ80形に編入された。デハ22号をもってデハ20形の鋼製車体化は完了し、デハ20形は形式消滅した。


  • デハ105号をデハ88号に改番


  • デハ87・88号が廃車、江ノ島鎌倉観光株式会社へ譲渡

    5月14日終電後に江ノ島〜腰越間の龍口寺付近から搬入され、極楽寺まで回送された。
    江ノ電ではデハ87号→601号、デハ88号→602号となり、2両固定編成に改造されて1970年9月1日に入籍した。


  • 和菓子司「扇屋」で製造・販売されている「江ノ電もなか」/1999年4月3日
    和菓子司「扇屋」で製造・販売されている「江ノ電もなか」/1999年4月3日
  • 江ノ電651号(元デハ88号)が保存されている江ノ島の和菓子司「扇屋」/2024年9月7日 和菓子司「扇屋」
    江ノ電651号(元デハ88号)が保存されている江ノ島の和菓子司「扇屋」/2024年9月7日 和菓子司「扇屋」
  • 和菓子司「扇屋」で保存されている江ノ電651号(元デハ88号)の先頭部/2024年9月7日 和菓子司「扇屋」
    和菓子司「扇屋」で保存されている江ノ電651号(元デハ88号)の先頭部/2024年9月7日 和菓子司「扇屋」