1925年7月15日
道玄坂上から分岐して、そのまま併用軌道で神宮通りに入り、明治通りに合流して京王線新宿追分駅に接続する計画だった。
1925年7月14日
玉川〜溝ノ口間の早期開通を目論見、玉川電気鉄道が建設費52万円のうち15万円を負担した。
1925年6月24日
蒲田車輛製作所で製造された。中扉が設けられ、乗降口が3箇所となるなど設計が変更されたが、玉川電気鉄道時代は固有の形式称号が定められておらず、車両竣工図表では「形式称号ボギー客車」とされている。
1925年6月1日
祐天寺、碑文谷、柿の木坂、等々力、下野毛を経由する計画だった。
1925年5月30日
途中に宇奈根、陣屋、本村、緒方停留場を設置、小田急和泉多摩川駅に隣接して狛江停留場を設置する計画だった。
1925年5月1日
上町停留場、豪徳寺前停留場、宮ノ坂停留場、山下停留場、六所神社前停留場、七軒町停留場、下高井戸停留場が開業した。これにより現在の世田谷線区間の全線が開通した。
1925年3月1日
区間制で1区4銭、2区7銭、3区10銭、4区13銭、5区16銭、6区22銭で全線25銭とされた。運賃境界は渋谷町役場前(中目黒線は恵比寿駅前)、渋谷、大橋、三軒茶屋、駒沢、用賀、玉川、世田谷、山下に設定された。