玉川電気鉄道 1〜15号 1920年〜1938年
東京横浜電鉄 1〜6号 1938年〜1941年

玉川電気鉄道 1〜15号→東京横浜電鉄 1〜6号 1920年〜1941年

 1920年9月の1,372mm軌間への改軌に合わせ、15両が名古屋電車製作所で製造されたとされていますが、東洋電機製造の創業期において、他社から購入した台車や車体等と自社製造の主電動機を組み合わせて単車10両を納入したとの記録もあり、一部車両は同社がOEM生産していたものと推測できます。車両竣工図表上の形式称号は「四輪客車」で、その後に製造された別仕様の車両と同様とされたため、玉川電気鉄道1号形と区分されている資料もあります。それまで運転されていた1,067mm軌間の狭軌電車15両はこの車両と入れ替わりに廃車されました。
 ベスチビュール付きのオープンデッキ、側面8枚窓、ブリル21-E台車を履いた木造四輪単車で、狭軌時代の最後に増備された電動客車13〜15号に似通ったスタイルでした。ダブルルーフが車端部まで回り込む形状はこの車両で初めて採用され、以降の木造車での標準的なスタイルとなりました。集電装置は当初はシングルポールでしたが、廃車時にはダブルポールとなりました。
 これ以降に増備された旅客車両はすべてボギー車で製造され、玉電では最後の旅客用の四輪単車となりましたが、それゆえ旅客数の増加に対応することができず、1936年から廃車がはじまり、1930年代後半には3・4号が玉川〜砧間専用車として運行されましたが、残った2両も1941年に廃車されました。この2両は満洲国の新京交通に譲渡されましたが、その後の行方は不明です。

玉電歴史年表から

 玉電歴史年表から1〜15号に関する出来事を抜粋しています。


  • 【日不詳】1〜15号が入籍

    ※実施日が不詳のため、月末である30日で登録しています。
    9月3日の改軌に合わせ、名古屋電車製作所で15両が製造された。
    玉川電気鉄道時代は固有の形式称号が定められておらず、車両竣工図表では「形式称号四輪客車」とされている。


  • 7・8号が廃車


  • 9〜15号が廃車


  • 東京横浜電鉄と玉川電気鉄道が合併、同社の玉川線となる

    合併時点の資本金は東京横浜電鉄が3,000万円、玉川電気鉄道が1,250万円。
    東京横浜電鉄には電動客車52両、電動貨車5両、貨車13両が編入した。
    また玉川電気鉄道時代は各支線に路線名が付けられ、渋谷〜天現寺橋間は天現寺線、渋谷橋〜中目黒間は中目黒線、三軒茶屋〜下高井戸間は世田谷線、玉川〜砧間は砧線、玉川〜溝ノ口間は溝ノ口線と呼称されていたが(同社による一部申請資料には天現寺橋〜砧間を玉川線と呼称している例もみられる)、合併前後から軌道線全線の路線名を玉川線に統一している。


  • 1・2・5・6号が廃車


  • 3・4号が廃車、新京交通株式会社へ譲渡

    廃車後は2両とも満洲国新京特別市(現:中華人民共和国吉林省長春市)の新京交通株式会社に譲渡された。
    1〜15号の四輪単車は全車両が廃車となった。


主要諸元表

玉川電気鉄道時代の車両竣工図表に記載されたデータを掲載しています。

最大寸法長さ8,229mm×幅2,209mm×高さ3,505mm
自重7.62t
定員40(座席22)人
客室面積10.11平方メートル
集電装置トロリーポール
台車ブリル21-E
駆動方式吊掛式 歯車比64:15=4.27
主電動機TDK9-D 直流直巻 出力26.8kW
制御装置DB1 K-13 東洋電機
ブレーキ装置手用ブレーキ:米国ホーン・ジャイアント形
電気ブレーキ:DB1 K-13
点灯装置前照灯:2個 標識灯:2個 車内灯:6個(予備灯:3個) 運転台灯:2個 方向幕灯:2個
設計最高速度38km/h
製造所名古屋電車製作所